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ハイチ/米国:ジャン=ジュスト神父追悼

カテゴリー: カリブ, 北アメリカ, アメリカ, ハイチ, デジタル・アクティビズム, メディア/ジャーナリズム, 人権, 人道支援, 健康, 国際関係, 宗教, 抗議, 政治, 歴史, 法律, 移住と移民, 選挙, 難民

先日他界したジェラール・ジャン=ジュスト神父 [1]へ、ブロガーたちからの追悼が後を断たない。神父は、ハイチ人ローマカトリック神父で、支持者から貧民の擁護者として知られ、追放されたジャン=ベルトラン・アリスティド [2]率いる政党「ラヴァラの家族 [3]」の熱心な支持者だった。


ジェラール・ジャン=ジュスト神父 [4]“, 写真:danny.hammontree, クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのもと使用(BY-NC-ND [5])。danny.hammontree's flickr photostream [6].

ジャン=ジュストは、2005年、ハイチ人ジャーナリスト、ジャック・ロシュ [7]の殺害の罪で逮捕されたことで、世界中の関心を集めた。彼の支持者らは、この動きを政治的動機によるものだとした。ハイチ人ブロガーWadner Pier [8]reは、これを「目にあまる政治的弾圧行為」と呼んだ。逮捕後間もなく、アムネスティ・インターナショナルは、ジャン=ジュスト神父を「良心の囚人 [9]」に認定した。6か月の拘束の後、容疑は取り下げられ、釈放された。また、ハイチ暫定政府からも仮放免を許され、診断を受けたばかりだった白血病 [10]の治療を受けるため、米国へ渡った。


ジェラール・ジャン=ジュスト神父を解放しろ [11]“、写真:danny.hammontree, クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのもと使用(BY-NC-ND [5])。danny.hammontree's flickr photostream [6].

ジャン=ジュスト神父が闘っていた敵は、がんだけではなかった。殺人容疑が取り下げられた後も、彼は立証する証拠が何もなかったのにかけられた銃器所持や共謀罪の疑い [12]辛うじて逃れ続けた [13]Haiti, Land of Freedom [14](自由の国ハイチ)は、その日(2008年7月19日)、神父の容疑が晴れたことを喜んで記念した:

ジャン=ジュスト神父は、賑やかな祝いが行われていた彼の教会(聖クレール教会)から、電話でHaitiAnalysisに語った。「主イエスに感謝します。主は私を見捨てないと信じていました。私は、命を落としかねなかった2件の違法な逮捕に関わった全ての人びとを許します。私は、刑務所の中で死んでいたかもしれない。でも、今は貧しい人びとのために尽くすことができます。」

ハイチのカトリック教会聖職者は、彼が獄中にあった間、彼を支援して声を上げるのではなく、むしろ政治活動のために停職処分にした。彼の支持者の多くを処分につて質問されたジャン=ジュストは、処分は取り消されると自信をもって述べた。

私は無実であり、イエスが裏切られ捕われる直前までそうしたように、私が教会での仕事をすることを許すことを、彼らは拒否するだろう。

ジャン=ジュストのような教区司祭とジャン=ベルトラン・アリスティドは、「小さな教会」運動の一部を作った。この運動は、ジャン=クロード・デュバリエの独裁に反対することで、一線を画した。


ジャン=ジュスト マイアミにて [15] 写真:Robert Miller クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(BY [16])のもと使用。 Robert Millerのflickr photostream [17]

2009年5月27日、ジェラール・ジャン=ジュスト神父は、62歳で他界し [18]、この世のすべての束縛から解放された。ブロガーたちは、敬意を表し続けている。Dying in Haiti [19]は、ニューヨーク・タイムズ紙 [20]によるジャン=ジュスト神父の死亡を伝える記事を転載 [21]し、神父の多くの善行を思い起こした:

彼は数十年間、休むことなく、ハイチの人びとのために働いた。

彼はミサで、聖ユダの助けを求めた。

私と妻は、彼を信頼できる人物として知っていた。問題の大小に関わらず、彼はいつも最後までやり遂げた。

神父は勇気のある人でもあった。彼が後に引きさがることはなかった。

神父さま、安らかにお眠りください。そして聖ユダに会ったときは、ハイチのことを忘れないようにと伝えてください。

The Haitian Blogger [22]は、Bell Angelot教授の記事を転載している:

ジャン=ジュスト神父は、常に公正で道徳的に正しいことをした。

力強い魂がこの世を去り、私たちの哀悼が街全体を暗くしている。一人のグリオが永久に去り、部族全体が泣いている。しかし、予言者がいなくなっても、彼の光は残っている。マイアミのハイチ人コミュニティーは、痛みと涙の洪水の中で、ジェラール・ジャン=ジュスト神父の旅立ちを知らせるために鐘を鳴らした。ジャン=ジュスト神父は、ハイチのジャン・ベルトラン・アリスティド、ニカラグアのレオナルド・ボフ、そしてサルバドルのオスカル・ロメロと並んで、解放の神学の草分けの一人だった。

サメがうようよする海に立ち向かい、正式な滞在資格も無く、いまだに一時保護身分(TPS [23])を認められない者にとって、ジャン=ジュスト神父は、ハイチ人移民権利の旗手だった。ジャン=ジュスト神父は、その名前のとおり(訳注:ジュスト(Juste)は、「正義」の意味)、正義の人だった。

最後に、Repeating Islands [24]は、ジャン=ジュストを「法廷、メディア、街角で、そして時には刑務所の中から、ハイチ人に対する不公平な扱いに対して、容赦なく戦いを挑んだ」人として思い起こし、「ジャン=ジュストの死への反応が、ハイチの人びとに対する彼の思いを表している」と書いている。