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ロシア:ソチ五輪とチェルケシア虐殺

カテゴリー: 東・中央ヨーロッパ, ロシア, 人権, 先住民, 戦争・紛争, 抗議, 政治, 歴史, 民族/人種, 法律, 移住と移民, RuNet Echo

The mountaineers leave the aul, by P. N. Gruzinsky, 1872. Public Domain

The mountaineers leave the aul, by P. N. Gruzinsky, 1872. Public Domain


2014、ロシアのリゾート地ソチは、冬季オリンピック [1]を開催する。しかし、ロシア内外の70万から90万人のチェルケス人 [2]は、どうにか平和的にオリンピック開催を阻止しようとしている。

チェルケシア人は、ロシア政府に対し、19世紀にアレクサンドル2世によってチェルケシア人口のおよそ90パーセントが殺害されたか土地を追われたチェルケシア虐殺 [3]を認めるよう要求している。ブログMass Communications WHSのDina Tlisovaが書いている [4]ように、ソチはこの虐殺の最悪の出来事が起きた場所であるため、問題はさらに深刻だ。

メイン会場となる「赤い谷」と呼ばれる場所は、1864年にチェルケシア人の97パーセントが殺され、オスマン帝国、シリア、ヨルダンなどの国に追放されたチェルケシア虐殺が起きた場所であるために、チェルケシア人がオリンピックに反対している。この近くに埋葬されていた兵士の墓地は、ブルドーザーで整地され遊園地となった。ロシアがチェルケシア虐殺を正式に認めなかったため、この問題には十分な関心が集まらない。

GeoCurrents.infoのMartim W Lewisは、虐殺についてのさらに情報を加えている [5]

およそ1世紀にわたりチェルケス人と戦ってきたロシアの指導者たちは、全住民を追放しようと決断した。チェルケス人のおよそ80~90パーセントが追放され、そのほとんどがオスマン帝国に逃げたが、半数近くがその過程で死んだ。現在、ロシア国内のチェルケス人人口は、90万人近くにまで回復した。トルコでは、チェルケス系の人びとはおよそ200万~400万人がおり、ヨルダンのチェルケス人コミュニティは15万人を数える。しかし、チェルケシア文化が故郷コーカサスの外で生き残れるかは疑問だ。

チェルケシア族は、アディゲ人 [6]アブハズ人 [7]ウビフ人 [8]、チェルケス人、シャプスグ人、そしてカバルディン人 [9]からなり、主にアディゲア共和国、カバルディノ・バルカリア共和国、そしてカラチャエボ・チェルケシア共和国内の北西コーカサス(ロシア南部)にいるが、トルコ、ヨルダン、米国を中心に世界中に離散している。

歴史上のチェルケシアは、現在ロシア連邦の6つの地域に分断されている。しかし、チェルケス人やそのディアスポラについての情報を提供 [10]しているウェブサイトCircassian Worldによると、世界中の90パーセントのチェルケス人はロシア国外に住んでいるという。

チェルケス人は、長年にわたり虐殺の事実を認めるよう求めてきたが、ロシアはそのような抗議、デモ、ウェブサイト、本、そして昨年10月にニューヨーク市で行われた様なソチオリンピックへの抗議活動などについて沈黙を守ってきた。ニューヨークの抗議の様子は、下のSokarovのビデオで観ることができる。

ロシア政府へ圧力をかけ、活動への支持を集めるために立ち上げられたウェブサイトNoSochi2014 [11]によると、オリンピック開催日程がこのジェノサイドの150周年と重なるという。これはチェルケス人にとっては象徴的だ。さらに悪いことには、1864年までその地に住んでいたシャチェ族から名付けられたソチ市は、この戦争最後の戦闘で死んだ何千人ものチェルケス人の骨と血 [12]の上に位置していて、ソチは独立チェルケシアの最後の首都だった。この他にも、Radio Adigaは「赤い丘」と名付けられた丘がスキー競技に使われると説明している [13]。そこはソチから少し離れた場所にあり、多くの人びとが殺害された血まみれの戦闘が行われた地でもある。

Used under CC

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ロシア政府は、この問題についての話し合おうという試みを、すべて断ってきた [14]。1994年、ボリス・エリツィン元ロシア大統領は、多くの人びとが帝政と闘い、それは正当なものであったと認識した。彼はロシアの対応は「ジェノサイド」であったとは認識しなかったが、ロシアの政府の認識の中でも最も近いものだとJamestown Foundationのブログ [15]は言う。

この事実認証問題は、それ自体にちょっとした歴史がある。1994年のボリス・エリツィン元ロシア大統領の発言 [16]では、「(19世紀の)帝政軍への抵抗は正当なものであった」とあったが、彼は「ジェノサイドに対する帝政の罪」は認めなかった。

そしてRussian RuNetでは、Russian BlogのYuri Mamchurのようなブロガーたちが、オリンピックについて言及し、血なまぐさい戦闘や住民の大規模な強制退去には一切触れることなく [17]、ソチはチェルケス人の侵略に抵抗するために要塞化されたもので、1829年からロシア帝国の一部だったと言っている。

15世紀から、海岸地域は地元山岳氏族によって統治されいたが、名目上オスマン帝国の支配下にあった。露土戦争の結果、1829年にロシアへ譲渡された。

1838年、アレキサンドリア要塞(1年後にNavaginskyと改名)は、チェルケシアの侵略から地域を守るためにソチ川の河口に築かれた。クリミア戦争中、活発な部隊を補強するために、守備隊がNavaginskyから撤退した。要塞は1864年にDakhovskyまたはDakhovsky Posad(1874年に判明)という名で再建された。1896年、この入植地は地元ソチ川に由来した現在の名となった。1917年に町制がしかれた。

最後に、Share BrookのEm Kâ Béは、オリンピック開催地にソチを選ぶこととアウシュビッツを選ぶことを比較し [18]、国際オリンピック委員会に疑問を投げかけている。

国際オリンピック委員会は、人道や政治的な大義に関わっている組織とはいえない。目を瞑って、現実を見ようとしない。実際、アウシュビッツでもオリンピックができるのではないか。それでもIOCが眉をひそめるようなことはないだろう。ただのスポーツ。他のことからは切り離された、スポーツのためのスポーツ。単なるスポーツ。代償が血であろうと、お金であろうと。それがただのスポーツであれば。