パキスタン:暴徒の残虐行為に国民がショック

まるで人間の苦悩の物語のように、洪水で起きた混乱による百万もの人々の立ち退きは、この国にとってほんの序章であった。先日別の悲劇的事件がパキスタンで明らかになった。パキスタンの人々は、2010年8月22日にローカルメディアが放送した、二人の十代の兄弟への残酷な暴力リンチのニュース映像を見て大きなショックを受けている。

ローカルの新聞によると、暴徒によるリンチは、8月15日パキスタンのパンジャーブ州東部にある スィアールコートで起きた。その後、犠牲者は17歳のMoiz Buttと彼の弟、15歳のMuneebであると判明した。彼らは純真で、優秀な家柄の出身である。

Mob-lynching in front of police

二人の少年が警察官と熱狂的な群衆の前で殴られている様子。
Youtubeからの映像より。

見たところ、問題の二人の少年はクリケット試合をめぐる口論に関わったようだ。翌朝次の試合へ向かう途中に待ち伏せされた彼らは、加害者側により市民や警官の前で窃盗の罪をなすりつけられ、殴り殺された。

この事件のビデオクリップによって、事件の激しさを感じることができる。このビデオの発信元は不明だが、何人かが携帯電話を使ってこの襲撃を記録したという報告がある。少年達の血まみれの体、とりまく群衆の一部の顔は明らかに見分けがつく。その中にはユニフォームを来て傍観している何人かの警官も含まれている。

ビデオやニュースで放送された映像は、パキスタンの人々を激怒させ苦しめた。これらがリンクである。(1, 2, 3)

アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領はこの撲殺を激しく非難し、犯人を罰することを誓い、審問を進めるよう呼びかけた。またレーマン・マリク内相は、国民は勝手に正義を作り上げてはいけないと主張した。

最高裁は二重殺害と受け止め14人を起訴した

多くのパキスタンのブロガーがこの事件に怒りを抱いた。ブロガーのAsadullah Qureshi次のように書いている:

私達は加害者が自分達の中から現れたと言う事実を認めなくてはいけない。この国の大部分が、 好む好まざるにかかわらず、モラルや正義に対する過激派の考えに賛同する理由を直視しない限り、このような悲劇はまた起こるだろう。

Express BlogJahanzaib Hagueは「自分もこのスィアールコートリンチの暴徒の一部である」と主張し、この問題を取り上げている:

非難ごっこはもうやめよう。タリバンや麻薬、政府、エリート、警察や軍、さらには根拠のない世界陰謀など、他のせいにするのはやめよう。私は人生で最悪の決断をしたと認める最初の人間になる。私はスィアールコートのあの暴徒の一部であった。絶望することは簡単だ、嫌悪することは簡単だ、無関心であることも簡単だ。ただスィアールコートのあの二人の兄弟のためにも、堕落は私達自身の中にあると認め、私達は変わるべきである。そうでなければ、私達もリンチを傍観していた群衆と何一つ変わらない。

さらにブロガーはこう言う:

立て続けに起きる政府や市民の対立、戦争、テロリズム、貧困、自然災害に影響を受けたこの国では、(全ての形で)過激暴力がさらに進み、完全に無力になってしまった人達のはけ口となる。誰一人この影響を受けない者はいない。

ジャーナリストのSadaf Khanは自分のブログExistential Questで次のように書いている:

正気でない行為を見て、それも無編集の鮮明な映像で、私にはどうしても理解することができない。たとえ慈悲心が少ししかない人間であっても、どうしたらたじろぎもせずあの野蛮な行為を傍観できるのか。スィアールコートの二重殺害はただの不幸で恐ろしい事件ではない。これは手の付けられない暴徒の話だけではない。この事件は、数人の男達が文字通り無害なティーンエイジャーを殴り殺すくらい、我々の社会が恐ろしいほど野蛮になっている証明である。
野蛮な群衆から出た野蛮人、彼らにふさわしい罰は一体存在するのだろうか?

フリーランス作家のHaroon Riazは彼の洞察に満ちた記事 「スィアールコートの大虐殺:パキスタン人は凶悪な国家になったか?」で以下のように述べている:

私には、この残虐で野蛮な犯人達は少年達が誰であるかを知っていて、故意に犠牲の対象にしたのだと感じる。また、この事件には人々や現地の腐敗した警察によって隠されたまだ語られていない物語があるように思える。この悲劇的な恐ろしい事件は、全てのパキスタン人を悩ませ考えさせなくてはいけない。これは日常的な事件でもないし、犯罪行為でもない。もし反論したり、話したり、自覚のない群衆を教育しようものなら、多くの人々が同じ境遇にされていただろう。

この事件は、次の視点から明らかなように、パキスタンの法執行機関にとって警鐘となった:

Fiverupeesこうコメントしている:

権限は、人々が存在すると信じれば存在する。市民は国に任せれば正義を果たしてくれると信じているのだろうか?もしそうなら、任せておくのが当然だ。もしそうでないのなら、任せておけない。まさにその行動によって、国の権限は弱体化する。
もし政府が機能しなければ、人々は自分達の政府を立ち上げる。1億8千万もの小さな政府は惨事のもとだ。それではもとの状態へ逆戻りだ。この国のメディアやテクノロジーの改革は、政府が機能していないことを次第に人々に気づかせてしまった。私の意見としては、どうすればこの国は単純なことを正しく行えるようになるのかという問題は、ここ10、15年、専門家や活動家が本格的に立ち向かう公共政策の問題である。パキスタンが経験する深い構造改革は今こそ必要である。

Dawn紙の社説「暴徒の正義」は次のように述べている:

法を執行する者や行政に携わる者が業務を果たさない時、また無力や不正義が社会へ広まった時、人々は自分達の手で対処するようになる。

事件は聞くからに恐ろしい事だが、「暴徒の正義」はこの国の一部の地方では普通のことである。暴徒の正義、力は正義だという考えは国への信用を失った社会で広まっている動きで、そういう社会は自警団に変貌する。
事件の原因は機関によって調査されているが、一つの明らかな原因には、無知に根付いた社会における過激思想の台頭がある。「無知は全ての悪の根であり、茎である。」

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