パレスチナ: ヨルダン川西岸 - 2人の学生の目に映る人生

Linah AlsaafinとHeba Awadallahはヨルダン川西岸、ラマラ近郊のビルゼイト大学の学生だ。1年前、二人でブログを始めた。ブログはLife On Bir Zeit Campusというタイトルで、学生生活やパレスチナの政治、その他の話題に鋭くも愉快な眼差しを向けている。この記事ではGlobal Voicesが行ったLinah Alsaafinへのインタビューをお届けする。Linah Alsaafinは、「ブログがあったから、さらに破壊的な生き方をしなくて済んだ」と冗談を飛ばす。

Linah Alsaafin (写真は使用許諾済)

Linahさん、まず最初にご家族について教えてください。複雑な事情があると伺いました。

私も私の家族も英国に10年(私は生まれてから10年!)住んでいたので、英国のパスポートを持っています。アブダビとアメリカのバージニア州に少しいたあと、そろそろ国に帰ろう、と両親が決めました。2004年にパレスチナに越してきたときは、父がジャーナリストだったので(記者証はイスラエルに発行してもらわなければなりませんでした)、1年で更新できる就労ビザで暮らしていました。私はパレスチナ難民3世です。祖父母は民族浄化に遭いアルファルージャ村を追い出されました。村はガザとヘブロンの間にあって、今はイスラエル人がキリヤトガトと呼ぶところです。1949年、いわゆるイスラエル独立戦争の次の年のことでした。父の家族はガザのハーンユーニス難民キャンプに移住させられました。祖父母は今もそこで暮らしています。母はラマラに近接する都市アルビレーの出身で、私たちははそこに落ち着きました。

1年経って2005年、現実がやってきました。旅行中だった兄が、その兄は兄弟でただ一人ハーンユーニスで生まれたんですが、アレンビー橋のイスラエルの出国管理局で、ガザの身分証明書のせいでヨルダンに渡ってはならないと言われたんです。それから4年間、兄にとってはつらい時期でした。イスラエル国防軍に逮捕されてしまうのでラメラを離れることもできないし、街の郊外に出ることもできませんでした。ご存知のとおり、ガザの身分証明書を持つパレスチナ人は、ヨルダン川西岸にはいてはならないんです。そしてそれは逆にも言えます(入手が難しいと悪名高い、軍の特別許可がないかぎり)。今や「イスラエル」と呼ばれるようになってしまった私たちの国土を訪れようとハイファやアッコに行ったときも、兄が来れなかったのでいつも気分が悪かったです。

2009年、私たちの世界は大きな音を立てて崩れてきました。父は当時、外国ビザと記者カードのおかげで簡単にパレスチナ域内を移動できていたのですが、ガザへの定期訪問時にエレズ検問所で逮捕されてしまったんです。イスラエル当局は記者証を無効にし、ビザを取り消しました。そして、父がガザの身分証明書を持っていることは知っている、だからそのように扱うだけだ、と言ったんです。私たちはビザの更新ができなくなったので、イスラエルが発行する身分証明書を受け取ることにしました。でも、移動の自由が制限されたり家族が一緒に暮らせなくなるなど、多くの基本的人権が奪われることになりました。父がヨルダン川西岸に戻ってこれないなんて、受け入れられませんでした。さらに悪いことに、母はまだ古い西岸の身分証明書を持っていたのに、なぜかガザの身分証明書が発行されたんです。私や他の兄妹は西岸の身分証明書を発行されて、ついにとんでもないことになってしまいました。母は父に会うために私たちと一緒にアンマンに行くことができなくなってしまったんです(父は結局アンマンに落ち着いていました)。もし行こうとしたら、イスラエルの出国管理局はガザの身分証明書を一目見て、母をガザに送還してしまったでしょう。母はすぐにイスラエルのGishaという団体に連絡を取りました。Gishaは母が父に会いに行き、そして「合法的に」帰ってこれるようにするために動いてくれました。その年は私たちみんなにとって最悪な年でした。でも2010年暮れになってやっと、西岸の身分証明書に切り替えることができたんです。(さらに詳しい話は「両親の再開」をどうぞ)

なぜブログを始めようと思ったんですか?

去年、2010年の2月でした。パレスチナ系アメリカ人の詩人、Remi KanaziがPalestine Writing Workshop(PWW)のための詩の朗読ワークショップ、その第一部でラメラに来たんです。 最初の「パレスチナの夜の詩」はLa Vie Caféで開かれて、RemiとTala Aburahmehが朗読しました。私と友達のHeba Awadallahはただもう、Remiの朗読に圧倒されてしまいました。Remiはパレスチナ人のアイデンティティやイスラエルの占領、帝国主義について、基本的なことを本当に色々、それも雄弁に、そして怒りを込めて語りました。私達はこれだ!と思わずにはいられなかったんです。特に、私達が表現しきれていなかった、私達自身の感情や不満を、そのまま言葉にしてくれたので。私達には大きな感情のはけ口が必要だと思いました。でなければフロイト理論のとおり、ユダヤのイスラエル人と一緒に関係正常化の対話に参加したりだとか自爆テロに走るみたいに、不満が危険な方向に向かってしまうかもしれない、と。ブログ開設は決まりました。技術的には疎いところがありますが、Bloggerを見たら簡単にできそうだ、と思ったんです。

Arabiatをハンドル名とするHebaとLinah (写真は使用許諾済み)

あなたとHebaは”Arabiat”(アラブの女の子、女性)というハンドル名を使っていますね。順番に投稿するんですか、それとも一緒に記事を書くんですか?

私達は一緒にいる時間が長いので、次の記事について二人で話し合って、私が書き上げます。最初はやる気に燃えていて、アイデアもモリモリ出てきました。でもHebaは私が言わない限り記事を書きません。それか、たまにラメラでイベントがあって、Hebaだけが参加したときはHebaが書くこともありました。二人とも政治は嫌いです。でも私は無能な政府や政治家たちの失政について書いています。パレスチナの社会から政治は切り離せないからです。それに、ハマスとファタハのうんざりするような罵倒のし合いを越えたところにある政治状況について関心を寄せたり、意見を言う学生が西岸に少ないと思っているから。全部が全部政治っていうわけではないと思います。でも大学の学生は、改革のようなものに関わったり、”Yes we can”みたいな変革を叫ぶべきだと思うんです。あ、今の無し。学生達はみんなに気づかせなくちゃいけないんです。BDSだよ、みんな!(BDS=boycott, divestment and sanctions、イスラエル製品の不買、イスラエルからの投資引き上げ、イスラエルに制裁を加える運動)

どんな人がブログを読んでいるか、意識していますか?記事を書くとき、どういう人達に向けて書いているか考えますか?

最初は大勢の人が私達のブログを読んでくれるんじゃないかと夢を見ていました。でもそんな妄想はすぐにどこかにいってしまいました。最初から、だいたい自分たちのために書いていたようなものだったんです。私達にとって重要な色んなことについて、自分たちの意見を表明するというか。例えば、私達の心にとってはそれほど大切でない大学、がっかりするくらい大したことのない学生、政治の展望とか文化的イベント。基本的にパレスチナに関係して私達が興味のあること全部です。でも後になって、しっかりと読者がついていることを知りました。そして、ブログを楽しんで読んでいる、とメールを送ってくれる人すら何人も出てきたんです。イスラエルの活動家でニリンビリンで抗議活動に参加した人や、最近西岸に越してきた博士号を持っている研究者も。英語学科の学生たちも読んでいるし、もちろん、機会があれば恥ずかしげもなくブログを自慢するようになりました。

ラマラやビルゼイト大学にブログコミュニティはありますか?他のブロガーに会ったことは?

ラマラには活発なブログコミュニティがあります。私がツイッターをマスターできたら会ってもいいかも。私はどちらかというとガザのブログコミュニティに関心があります。素晴らしいブログがいくつかあるんです。でも、コンタクトを取ろうとは思いません。本当に考えたこともありません。うーん、多分小説家に会うようなもので、「あなたの本のファンです」って言ったあとは、自分のブログについて熱く語る以外は何も言うことがなくなってしまうみたいな。それはそれでおもしろいかもしれませんけど。

好きな記事はありますか?

Norman Finkelsteinのラップ、ガザバージョンのワールドカップ、あとはアメリカの大学であった、イスラエル国防軍兵士の講演で次々に退席する学生たちの記事。私たちは燃え上がる国と名づけました。favorites(お気に入り)というタグがあるので見てみてください。それとも、全部の記事について話しましょうか?(笑)

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