ブルガリア:ソフィアの旧ソ連軍記念碑に対するブロガーの論争

<ウィキメディア・コモンズのIvan Ivanovによる写真>

ソフィアにある旧ソ連軍の記念碑は、第二次世界大戦のナチスに対する勝利を称えて、1954年に建てられた。今日、この碑は右派と左派の政治団体の間の議論の的となっている。最近ブルガリア社会において、ある右派の団体が、この碑を撤去すべきかどうかの議論を始めた。

ブルガリアのブログDeCommunization (脱共産化)には、こう記されている

[…] 我々は何者なのか?どこから来たのか?どこに向かっていきたいのか?どうやってそこにたどり着くのか??これは結局、たった一つの質問に尽きる:「我々は何を望んでいるのか?」[…]
[…] 今や存在しない、ある軍隊の記念碑から、全ては始まった。今や存在しない国。いや、あるいは存在するのかもしれない。おそらく新しい形で、覆い隠されながら。 そうでなければ、どうしてこんなにもたくさん、弁明者がいるのだろうか?困難な問題に対して答えを見つけ出そうとする度に、どうして今や存在しないものに、こんなにも多くの人々の エネルギーが動員されるのだろう。いや、そうではない。我々が後ろを振り返らない限り、前に進めないのである。[…]

DeCommunizationの別の記事には、さらに意見が寄せられている

[…] 支配国である旧ソ連の軍隊の記念碑を、全体主義的芸術美術館へ移設を希望する理由

共産主義的な思想と共感を抱く者すべてに、再度主張する。ヴァルナ市内に、ブルガリアの自由のために命を犠牲にした全ての亡きソ連軍人のための記念碑がある。それには、何十個もの名前と肩書が記されている。十代の頃、私は不思議だった。私たちの地域でも国全体でも戦いなどなかったのなら、どこでどのようにして兵士たちは死んだのか。大人たちはこう言っていた。共産党軍の兵士の多くは、自ら犯した窃盗、殺人、放火、レイプの償いのために、自らの命を投げ打ったのだと。当時、共産党のプロパガンダに影響され、また若く世間知らずだった私は、そんなことはあり得ないと思っていた。しかし今日、知識と経験を得て、共産党軍の記念碑は、殺人者、強奪者、放火犯、レイプ犯、またその他の犯罪者を称えるものであるとはっきり述べることができる。彼らは「ブルガリアの自由のため」に死んだのではなく、貧しく無知な無法者によるそのような野蛮な行為を取り締まろうとした味方の兵隊に、壁の向こうや木の陰で、裁判なしに処刑されたのである。[…]

ブルガリアの歴史学者であり政治科学の講師であるAntoniy Todorovは、自身のブログでこう述べる:

[…]この議論は特に目新しいものではなく、記念碑を撤去しようという構想はすでにいくつもあった。しかし、1989年以降の政府はそれを避け続けてきた。さらに、ロシアにおいては、そのような行為があれば、自国に対する否定的な意図の表れとみなすと常に表明していた。

両サイドともに、強固な論拠があった。そのため、それがどのようなものであれ、問いは政治的になり、解決策もまた政治的になる。つまり、議論の中でどちらにつくかということだけに収まらないということである(どちらにも言い分があると言える)。我々の社会全体で特に重要と考える優先課題に沿う形にしなければならないという意味において、これは政治的な判断である。[…]

[…] では、ブルガリアにおいてはどうだろうか?ここでの主題は、我々はナチスに勝利した日を称えるべき立場にいるか否か、ということである。この問いに答えを出すのは容易ではなく、それは本質的にはブルガリアが文明化した社会としてどこに所属するかを選ぶということである。[…]

ヨハネスブルク在住のブルガリア人、Nikolay Sisoevは、自身のブログTrudenで、ソフィアの旧ソ連軍記念碑についてコメントしている

[…] ブルガリア人は常に、自分たちの未来を称え、過去を責めてきた。それは我々の最近の「最も民主的な」過去についても、全く同じである。その時期はかなり多くの非難をあびてきたが、あの45年間ほどそれが激しい時期はない。その45年間、ブルガリアはオスマン支配、そして次に、ヨーロッパのファシストによる独裁から解放してくれた者たちと同盟関係を結んでいた。この最初の功績に対して、ブルガリアは感謝を表して、記念碑を建てた。
2つ目の功績も同じように称えられた。しかし今日、亡くなった2000万人のロシア人は、ソフィアに、もっと言えばブルガリアに、記念碑一つ建てるにふさわしくないことが明らかである。[…] なぜか?それは、今や我々が民主主義者だからであり、ファシズムと戦って死した人々は共産主義者だったからである。[…]

反ソビエト派で知られる著名なジャーナリストのIvo Indzevは、個人のブログでこう述べる

[…] 今まで何度繰り返したか分からないが、この記念碑が何を表すか、我らが戸惑う者たちに思い出させてあげよう。これはブルガリアに対するロシアの帝国主義的支配である!共産主義の碑でさえなく、ましてや左派の理想の碑でもない。旧ソ連軍の名を刻んでいながら、旧ソ連の記念碑でもない。これが旧ソ連の碑であったとしたら、それを撤去することは、「同じように」連合のメンバーであった全てのかつての旧ソ連諸国を怒らせることになるだろう。エストニアがブルガリアに碑を保存するよう要請するだろうか?まるでジョークである(ロシアから要請がきたら、全く笑えないが)。[…]

別のブルガリアのブロガー、Pavel Yauchevはこう述べる

[…] 旧ソ連軍の記念碑は、ローマの円形劇場でも、1920年代の豊かな企業人家庭の家でもない。それは存在しない幸福と喜びのイメージを実現するために建てられたのであり(実はかなり著名な建築家による設計なのだが)、純粋なる共産主義者のプロパガンダとしてその地の統治とイデオロギーを強化しようとしている。しかし、単に碑の撤去を決定する前に、1998年のGeorgi Dimitrovの霊廟に起きた出来事を思い出してみよう。全体的統治を体現するほか、もはや目的を果たさなくなったこの霊廟は撤去されたが、代わりに建てるべきものを考えていなかった。建物を撤去することは、それを建てることよりも長い時間がかかった。その撤去は、同じような全体主義的背景によって、誰かに、その都市の市民にさえ、意見を求めることなく決定された。[…]

著名なブロガーであるMuiioは、ブルガリアの旧ソビエト時代について意見を述べた:

[…] うーむ、ではブルガリアのルネサンス時代の建物を、全部とりこわしたらどうだろう!なぜなら、全てオスマン帝国による支配の記念碑なのだから。我々の国の過去にまつわるいかなる記憶もシンボルも、消してしまおう。それは太陽や虹のようなきれいな物事ばかりではないから。あるいは、美しい記憶だけ残した方がいいのだろうか?

考えてみよう:何が良くて何が悪いのか、次に何を滅ぼすのか―旧ソ連軍記念碑なのか、公共温泉浴場なのか―それを決めるという困難な仕事を、我々は誰に託そうというのだろう?

旧ソ連軍の記念碑が、今日のソフィアの中心部(またはブルガリア人全体)を汚すと考える人たちに言いたい。新たなプレートを設置し、照明をあて、大きな文字で、この碑が建てられた背景と、この碑に象徴されるものについての解説を記そう。碑の周りに博物館を建てよう―これは我々の歴史の重要な部分であるだけでなく、まだそれを見たことのない多くの人々にとって興味深いものである。外国人だけではなく、我々より若い世代、あるいは我々の世代の人たちにとっても、である。[…]

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