イスラム教徒が大半を占めるバングラデシュでは、イード(訳注:ラマダン明けの祭)は最大の宗教行事だ。そして、故郷に帰って家族でイードを祝うこと、これがこの祭の最大のポイントである。
イードの期間は、普段は首都ダッカで暮らしている多くの人々が家族と過ごすために故郷へ向かう。 Nasirudding Hozza [bn] がその様子を、「イードを祝いに、故郷へ」と題した投稿のなかで語っている。
ダッカで暮らす人々の大半は、生活を支えるために故郷から出てきた地方出身者だ。しかし彼らには望郷の念がある。そこに自分たちのルーツがあるからである。故郷がダッカのすぐ近くにある人もいれば、遠く離れた地方の村に故郷を持つ人もいる。イードの期間中は、故郷が近い人も遠い人も、みんな故郷に帰らなければならない。
実際、イードの時に故郷に向かう人がどれだけいるのか、それを示す統計データはない。しかし Nasiruddin Hozzaによると、ダッカの人口は現在約960万人。その4割が帰郷すると仮定すると、その数は350万人にも及ぶ。
つまり、イードの頃には、ダッカの半分が空になっているということになる。また、正式なイード休暇のかなり前から街を離れる人も多くいる。そうなると、騒々しい街で少し空間が広がったような気がして、ダッカ市民は満足感に浸るのである。
フェイスブック・ユーザーのAmanullah bin Mahmud'sの故郷は、ダッカから遠く離れたSirajganjにある。移動手段はレンタカーで、イードの前日にダッカを出発する予定にしている。一方、公共交通機関を利用する人にとっては、故郷への移動は不愉快なものになりそうだ。事実上チケットは入手不可能に等しく、それでも手に入れようと思えば普段より高い料金を払わざるを得ないからだ。
Uzzal [bn] は「わたしの思いは故郷へと伸びる。―でこぼこ道につながれて」と題した投稿を寄せている。
バスも飛行機も、チケットはすでに完売している。希望を胸に切符売場に徹夜の列を作っている人も、最後に自分が笑えるかどうかは定かではない。無数の蚊に喰われながら眠れぬ夜を過ごし、その甲斐あってチケットを手にできたなら、どんなに嬉しいことだろうか。それはこの苦行を耐え抜いた人のみが理解できる喜びだろう。しかし全ての人が幸運をつかめるわけではない。いったん窓口が開けば、チケットは即座に完売してしまう。カラの両手で立ち尽くす夢追人は少なくない。
Uzzalは、彼自身の経験についても語っている。
わたしもチケット入手に悪戦苦闘しなければならなかった。それにしても、今年のチケットの争奪戦は今までで一番過酷だった。わたしはここ数年、公共交通機関を避けて、飛行機を利用していた。まずダッカからJessoreまで飛び、そこからは航空会社のバスでKhulnaへと向かうルートだ。ダッカからJessoreまでは35分、そこからKhulnaまでは50分、それだけの旅だ。ところが今回は難題に見舞われた。飛行機が全て満席だというのだ。わたしはチケットを手に入れ損ねてしまった。それでも何とか故郷へは帰らねばならない。
結局Uzzalは、仕方なくいつもよりかなり高い料金を払って、故郷へのチケットを手に入れた。チケットをとることができなかった人を助けるために、フェイスブックに書き込みをする人も多い。例えば、有名なライター、Anisul Haqueのフェイスブック・ページ [bn] には、『ダッカ~Rangpur間の急行列車、エアコン完備車両で5席分のチケットあり』という情報が載っていた。
チケットが手に入ったからと言って、実際に故郷までたどり着けるとは限らない。ブロガーのMamu [bn] は「みんな故郷へ帰らねばならないのだが」と題した投稿で、以下のように述べている。
SadarghatとSwandeepを結ぶ唯一の船は故障中。河川では船が不足している。地方を結ぶ道路も、ひどい有り様だ(エディター注:今年のモンスーンによる豪雨の影響)。そこに交通渋滞が加わると、状況はさらにひどくなる。予備の列車を連結しようにも、それを引っ張れるだけのエンジンがない。旅の途中には何らかの問題も発生するだろう。イードの直前に故郷へ向かう人たちの場合、イードに間に合うように故郷にたどり着けるかどうかは、神様にしか分からない。
道路でも河川でも、毎年何らかの事故が発生し、多くの人が命を落としている。2009年には、詰め込みすぎのために船が沈没し、乗客数百人が亡くなった。D. M. Habib [bn] は、政府が十分な対応をとっていないと指摘している。
2009年、イードのために故郷へと向かう人々を乗せた船が、超過密乗船が原因で沈没し、数百人が命を落とした。毎年イードの時期は、バスも列車も船も定員オーバーのままで乗客を運んでいる。政府はそうした状況を避けるための策を打っていない。一般の人々が、命の危険を知らせる警告にも耳を貸さないということはある。しかし、政府は自らの責任から逃げてはいけない。適切な調査を行い、安全確保を怠った責任がどこにあるのか、はっきりさせるべきだ。
残念ながら、状況は毎年変わっていない。交通機関の許容量に比べ、故郷へ帰ろうとする人の数があまりにも多すぎるので、こうした現状では、人々は危険を冒すしか方法がないのだ。
Nasirudding Hozza [bn] は、このように締めくくっている。
家族と祝うイードは、幸せに満ちている。そこに至る道が平坦ではなかっただけに。