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日本:東日本大震災から4年、福島の家族が過ごした日々

東日本大震災から4年の歳月が流れた。震災で事故を起こした福島県第一原子力発電所の近くに当時住んでいた妹一家が過ごした日々を、ブロガーの齊藤貴義細やかに描写している(著者の許可のもとで転載)。

私の実家は相馬市だけど、下の妹夫婦は義弟が第一原発に勤めていた。東電の子会社で第一原発の施設管理を行う警備会社の仕事だ。その関係で大熊町の第一原発のすぐそばに住んでいた。

4年前の3月11日、第一原発が施設警備どころの話ではなくなったので、妹夫婦と1歳の姪の3人は大熊町から避難することになった。

相馬の実家や妹への電話は全く繋がらず、東京の私は不安だったけれど、ネットしかやることがなかったので、Twitterで「原子力空母ロナルド・レーガンがキタ━(・∀・)━!!!!」とかつぶやいていた。

相馬の実家と1回だけ電話がつながって「実家は無事。妹一家は福島県田村市に避難している。義父は消防団なのでまだ大熊町に残っている」という情報を聞いた。その後、テレビをみていたら避難区域が拡大されて田村市も避難区域になった。

そのあとの妹一家の行方が分からなかった。私は田村市から避難できたのか心配だったけど、連絡がつながらないし、ネットしかやることがなかったので、安全厨と危険厨の論争を読んだりしていた。

ネットを見ていたら、相馬市に支援物資が届いたけど、相馬市に届いた最初の支援物資は棺桶だった。高校時代に行きたくてたまらなかった旧相馬女子高の校舎が臨時の死体安置所になって、海岸部から続々と運ばれてくる身元不明の死体を置く場所になった。自衛隊が相馬に救援に来て救助活動を開始した。

その頃、浦和に住んでいた上の妹が、警察官の彼氏に車を出してもらって、妹を探しに出発した。そして北茨城市で避難民の中から下の妹一家を発見して、車に乗せて浦和まで連れて帰った。私はただネットをしていただけだった。非常時に何の役にも立たないお兄ちゃんでした。

上の妹から連絡があって、下の妹一家3人を連れて帰って浦和のワンルームマンションでしばらく4人で生活するという話だった。私は何も出来なかったけど、これから妹が何をするにも現金が必要だろうと思って、障害からようやく回復したばかりの、みずほ銀行から預金をおろして、浦和まで行って妹達に渡した。浦和は計画停電の対象だったので、何度か電気が止まったらしい。お金を渡したら、下の妹が「みんな無事で本当に良かった」と泣いていた。

その後、1ヶ月ほど下の妹一家は浦和に住んでいたけれど、相馬の仮設住宅に暮らせる目処が立って、相馬に帰った。その1年後くらいに私が相馬に帰ったとき、妹の仮設住宅を見に行ったけれど、本当に木造で急場でつくった感じの住宅で、下の方から木の腐食が始まっていた。姪のためにアンパンマンのおもちゃを持っていったけれど、何だか不憫だった。

あれから4年…。妹一家は東電からの賠償金が沢山貯まって、相馬に新築の家を建てた。もう1人の姪が産まれて、東電の賠償金は子供であれ4人分もらえるので、けっこうなお金が入っていると言っていた。義弟はレーシック手術や歯のホワイトニングに興味があるらしい。それくらいお金に余裕が出てきていた。地元の親族では、テレビが報じているほどには東電を憎んではいない。

相馬市も、市役所を新しく建て替えて、全面蔵造りの新庁舎にする工事が始まっていた。相馬市の庁舎津波の影響を受けていないけど、復興予算が余っているのかな。

海岸部も見に行ったけれど、かつて町だった民宿街が更地になっていた。まだ一部の建物は壊れたままだった。相馬で有名な海苔の養殖はまだとても開始できる状態ではなかった。

相馬の母は車を運転中、「松川浦大橋音頭」という演歌を流していた。これを聴くと「元気だった頃の相馬を思い出す」という。この演歌を歌っている歌手は津波で死亡している。

そんな4年間だった。

震災後に私が撮影した相馬野馬追い宇多郷の行列

震災後に私が撮影した相馬野馬追い宇多郷の行列


余談:先月、引っ越しの報告で相馬に帰省した。故郷に帰るときは出来れば錦を飾りたかった。「良い知らせがなくて帰りづらかった」と両親に話したら、「お前の家なんだから、いつ帰ってきても良いんだぞ」と言われた。捲土重来、頑張ります。