シュカ・カランタリがThe Worldに寄せたこの記事とラジオレポートは、当初2015年5月12日にPRI.orgに掲載されたものである。コンテンツ共有の合意のもとに、ここに再掲載された。
アメリカでの初めてのコンサートのために、ソニタ・アリザデが町に来たときに、彼女に会った。散歩をしていると、彼女は突然立ち止まり、2人の子どもと遊ぶ男性を凝視した。
「ここアメリカでは、父親が娘を公園に連れて行くための時間を割く」彼女は言った。「私の故郷では、見られない光景よ」
ソニタはアフガニスタン出身だ。18歳で長い黒髪、華奢な体つきをしている。もし両親の計画どおりになっていたら、今頃ソニタは結婚していたことだろう。「今では何人かの子を持つ母親だったかもという現実を時々考えるの。好きな考えではないけど」
ソニタはテヘランで育った。イランの首都だ。彼女が8歳のときに、戦争のために両親はアフガニスタンから逃げてきた。ソニタは不法入国のアフガニスタンの子どもに教育する非営利団体を見つけた。そこで空手や写真、ギターを学んだ。そして歌、ラップを始めた。
彼女の音楽はすぐに認められた。ソニタはイラン人のディレクターに出会い、そのディレクターがソニタの音楽スタイルを磨き上げる助けとなった。またミュージックビデオも作製し、そのビデオはいくつかの賞を獲得した。全てが完璧だった。あの日までは。「ある日、ママが言ったの。『お前は私と一緒にアフガニスタンに帰るのよ。お前と結婚したがっている男性がいるの。お前の兄さんが婚約して、その結婚資金のためにお前がもらう結婚持参金が必要なのよ』」
ソニタは打ちのめされた。だから「売り物の花嫁」という歌を書いた。この歌はこう始まる。「こそこそ声で話させて。売られる女の子について話してるって誰にも気づかれないように。誰にも聞かれてはいけない。シャリーアに背くことだから。女性は沈黙しなければならない……これが伝統なの」
このビデオではソニタはウェディングドレスを着ている。額にバーコードをつけて。顔にはあざがある。家族にどうか売り飛ばさないでと懇願している。
ソニタは両親がこのビデオについてどう思うか心配していた。だが、彼らは実際はとても気に入った。そしてまた、ソニタに結婚する必要はないとまで言ったのだ。
「私のために両親が伝統に背いたということは、私にとってとても大きな意味があります。今や私は想像だにしなかった場所にいるのです」
音楽をめぐるソニタへの注目により、彼女は全額の奨学金を得てユタにあるアートアカデミーに通うことになった。それが、ここサンフランシスコベイエリアでのコンサートにつながったのだ。だがコンサートの前に、ソニタはリハーサルが必要だった。一緒に車に乗り込み、近くのウエスト・オークランドへ行った。
この地域にあるリハーサルスタジオは壁が落書きで覆われていた。道の両側にはホームレスの人々が列をなす。ソニタは衝撃を受けた。その光景で彼女の故郷を思い出したからだ。
「みんなが貧乏で、家は荒れ果てている。そんな場所で育ったわ。夜は外に出ることができなかった。だってすごく危険だったから。アメリカにも夜に一人で出歩けない場所があるっていうの? だとしたら、いったいどこに避難場所を見つけられるっていうの?」と彼女は言った。
コンサートのすぐ後、ソニタはFarkhondehという名前の女性についての記事を読んだ。Farkhondehは、伝えられるところによると、アフガニスタンにおいて、コーランを焼いたために、石を投げられ棒でたたかれ死亡した。ソニタは悲しみに打ちひしがれた。だからソニタは彼女が知っている最善のことをした。この事件について歌を書いたのだ。
「ラップでならば、みんなが自分の事を伝えられるの。ラップは私の心の叫びを分かち合う手段なのよ。」
また、時としてラップは悲しみや怒りを表す方法でもある。アフガニスタンの女性にとっては、その感情を見せてさえいけないとされている。ソニタは今、故郷から約1万1千キロ離れた土地で暮らしているけれども、いつも心のすぐそばに感じることについて歌っているという。アフガニスタンの人々のことを。