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トルコから故郷へ帰ることを決めたシリア難民

カテゴリー: 中東・北アフリカ, シリア, トルコ, 人権, 人道支援, 国際関係, 市民メディア, 戦争・紛争, 民族/人種, 移住と移民, 難民, 架け橋
Sheriff and author John Lubbock in Istanbul. PHOTO: John Lubbock

シェリフと筆者のジョン・ラボック。写真:ジョン・ラボック提供。

私は昨年の大半をイスタンブールで過ごし、フリーランスのジャーナリストとして仕事をし、映像 [1]を制作していた。そこではたくさんのシリア難民と出会った。ある日私がイスティクラル通りで道を尋ねたシェリフもその一人だ。彼は私や友人たちと一緒にお茶を楽しんだ。そして、困難な状況にもかかわらず彼が持っている理想主義と希望に満ちた考えに、私は強い感銘を受けた。その初めの出会いの後、私とシェリフは、アラビア語と英語をお互いに教え合うため頻繁に会うようになり、中東の政治についてもよく語り合った。

シリア人はトルコで働いたり勉強をすることを許されている。それでもシェリフをはじめとして彼らの多くはクルド民族なので、政府は依然としてシリア人に対して相容れない態度をとっている。トルコは世界中でも最もクルド人の人口が多い国であり、そのなかでもイスタンブールはクルド人が一番多い都市だ。クルド人がシリアの北部とイラクをまたいで独立国家を形成することにトルコ政府は懸念を示し、緊張が高まってきている。

今、ロンドンに戻って来て、難民が地中海で溺死したというニュースを毎日のように目にすると、私がイスタンブールで会った難民たちのことが気がかりになる。皆それぞれに違った才能を持ち、非常に勇敢な若者たちだ。そんな彼らにシリアは死と貧困をもたらすだけなのだ。

シェリフはヨーロッパでは安全の確証もなく、家族の面倒を見たいとの願いもあったためシリアに戻ることを選んだ。私たちヨーロッパは彼らに対してもっとうまくやれるはずだ。彼やその家族に、シリアの危険な状況下での暮らしではなく、ヨーロッパへの安全な渡航を提供すべきだ。ヨーロッパ人は世界に対する義務として、恵まれていない人々に自分たちが与えられた寛容さを分け与えなければならない。その人々に対する人間の義務として、難民に安全な渡航と、彼らの母国の安定に協力しなければならない。そうすれば、彼らはいつか母国へ帰れるという希望が持てるのだ。
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私の名前はミヒームド・シェリフ・ムーザシェリフと呼んでください。1980年代半ばにシリアのクルド地区のアムーダで生まれました。当時は、アサド政権の下にたくさんの不正が行われ、ハマーやアレッポでムスリム同胞団のメンバーが虐殺されました。

クルド人に対する人種差別もあり、私たちは自分たちの言葉を話すことさえ許されていませんでした。たくさんの人々は市民権を拒否され、クルド政党は活動を差し止められ、政党員たちは逮捕されました。

私の家族は貧しく、父はてんかんを患っていました。結局父は亡くなり、叔父二人が私たちの教育義務を持ちました。私には女2人と男1人のきょうだいがいましたが、男のほうと、女のうちの1人は障害を持っていたので、私は家族全員を養わなければなりませんでした。

叔父の一人は、禁止されたクルド政党、ヘヴガーティナ・ジェル (人民同盟)で働いていました。ヘヴガーティナ・ジェル のスローガンは「シリアのクルド人の自己決定の権利」です。今その政党はRDK-Sという同盟を形成するために他の政治団体と連携しています。

私の育ったシリアの北部のアムーダは、文化と政治、つまり詩と狂気の都市と呼ばれています。私たちが持つ文化と政治は双子のようなものです。なぜなら私たちが受ける政治的不公平は、クルド人としての文化的独自性がもたらすものだからです。

シリアの内戦が2011年に始まった時、私はダマスカス大学の2年生で、英語のアラビア語翻訳を勉強していました。

私は最初に起こった事件やデモの時からシリア革命に関わっていたので、政府から指名手配され、大学に戻ることが出来ませんでした。そして戦争が徐々にシリア全土を破壊していく頃にアムーダに戻りました。

地域の子供たちが教育を受ける機会を失わないようにとの思いから、私は、高校生の試験勉強を無償で教え始めました。

2013年、ロジャヴァ自治区の支配を確立していたクルド政党、PYD [2](民主統一党)によって地方政治活動家たちが逮捕された事件に抗議するために、私はハンガーストライキに参加しました。2013年7月27日、PYDの義勇軍であるYPG(人民防衛隊)は、私たちの穏やかな抗議に対して攻撃をしかけ、6人の市民が亡くなり、30人以上が負傷、90人以上が逮捕されました。幸いにも私は不在でしたが、彼らは私の家にも3度も押し入りました。そういう訳で私はトルコへと発ったのです。

家族と遠く離れてトルコに住むことは、私にとってはとても辛いことです。ここは物価が高すぎて彼らを連れてきて一緒に住むことは出来ませんでした。今私は、ここイスタンンブールで、シリア学校の英語教師として働いています。シリア人がより良い仕事を見つけられるように、時々英語を無償で教え、サズやバグラマという弦楽器を弾き、フリーダム・ラバーズというバンドと歌っています。

私はアムーダに帰りたいです。なぜなら生まれた自分の土地で根ずくことが一番良いからです。いつかヨーロッパに行きたいという気持ちもありますが、家族を家に置き去りにはできません。自由と平和、正義を信じ、宗教、政治的趣向や民族にかかわらず他人を尊敬する教育世代を作り上げたいのです。人種差別を拒み、生の美しさを愛する世代です。

私は子供たちや学生たちが戦争や暴力から離れて子供時代を過ごせるように、無料の講座と趣味を学べる施設を設立したいと思っています。

シリアの子供たちと国民に自由と平和、正義をもたらすという、多くの夢と希望が私にはあります。多くのクルド人にとって平和と希望の灯台でありつづけてるイギリスの大学で、いつか政治を学びたいと思っています。

生きている間に自由なクルジスタンを見たいのです。もしその勉強を終えることが出来たなら、いつの日か私は、クルド人の独立と平和国家の創造に貢献できることでしょう。

校正:Yasuhisa Miyata [3]