この記事は、プルー・クラークにより「ザ・ワールド」向けに発表され、2016年1月30日、PRIに掲載されたものです。コンテンツ共有の合意のもと、グローバルボイスに転載しています。
ワンムーア・ブックストア、その小さな店頭はモンロビアの中心部である車の通りの多い道路に面している。このブックストアは多くの「初めての試み」を行ってきた。教科書を販売する書店は、これまでもあったのだが、ここでは純粋に読書の楽しみのための本を売っている。また、オーナーは、リベリアの子どもたちだけを対象とした本を出版している。ここは、読み聞かせに子どもたちが楽しく耳を傾けることのできる、希少な場でもある。(訳注:モンロビアはリベリアの首都)
内戦や貧困、もっとも最近ではエボラ出血熱などによる災禍を被ったこの貧しい西アフリカの国では、読書は人々が普段の生活の中の楽しみとして行うことではない。子どもたちは、学校で必要なときは本を読むが、リベリアは世界でもっとも読み書きのできない人の比率が高い国のひとつである。
ワンムーア・ブックストアのオーナーがその意思を貫くなら、それはすべて変わっていくだろう。オーナーのワエートゥ・ムーアは30歳のブルックリンを拠点とする作家で、5歳のとき家族とリベリアを離れた。彼女がブックストアをここに開いたのは昨年のことだ。ムーアは2011年から、リベリアの子どもたち向けの本を出版している。
他の貧しい国々の子どもたち同様に、たいていの子どもたちは、西欧諸国から寄付された本を読む機会があるだけだ。
「これらの本は、野球をするボビーや、袋小路に迷い込んだシンディーについての物語です」とムーアは話す。「それにピザ。このリベリアに住む子どもたちの典型的な日常にはないものばかりです」
寄付された本は、理想化された海外の文化を与え、子どもたちが置かれた環境とは別の枠に彼らをあてはめようとする、とムーアは言う。要するに、読書の理解を難しくするのだ。
「もし、子どもが本に出てくるものの概念を理解するなら、本の読み方を学ぼうと努力するだけで済みます」とムーアは言う「しかし、もしそれを理解していないのであれば、読み方を学び、さらに文章がどんなことを意味しているのかも学ばなくてはならないでしょう」
彼女は同じく作家である姉のウィアンダ、アーチストの妹クーラとともに、それを変えることにした。「J is For Jollof Rice」は、リベリアの子どもたちのために書かれた初めての本だ。それに続き、他のリベリアの作家や、ムーア姉妹のアーチストの弟アウグストゥスによる本も出された。彼らの出版社ワンムーア・ブックは、ハイチ系アメリカ人作家エドウィージ・ダンティカとともに、そのシリーズを制作している。さらに、彼らは現在、ブラジルやギニアに向けた本を作っており、5つ目のシリーズが今年後半ガーナで出される予定である。
これらの本は大きな影響力を持っていると語るのは、リベリアの教育の専門家であるママワ・フリーマン・ムーアだ。「子どもたちの本への反応を見てください。彼らの興味を喚起し、本を読もうという気持ちを高めることができるのです」
リベリア大学の教授であるママワは、これらの本の影響について語ることがとても適していると言えるだろう。しかしそれ以上に、彼らの創作についてママワは大きな役目を果たしている。ワエートゥ・ムーアの母として。
救出
1989年、ママワ・ムーアはリベリアの教師であり、3人の小さな女の子の母親でもあった。彼女はコロンビア大学での教育研究のため、名高いフルブライト奨学金を得た。それはあきらめるには惜しい貴重な機会であったから、家族は覚悟を決めた。ママワは子どもたちと夫を残してニューヨークに旅立ったのだが、やがて彼らの国が巻き込まれることになる惨事については知る由もなかった。
数か月内に、チャールズ・テーラー(のちに国際戦犯法廷で有罪とされた前大統領)が、25万人の人々を殺害することになる恐怖による統治をはじめたのだった。ワエートゥの父は娘たちを背負い、首都モンロビアを脱出した。彼らは何週間もの間さまよい続け、森に隠れながら見つけたものは何でも口にしたのだった。やっとのことで、父と子は地方の村に避難した。
一方、ニューヨークでママワは何も知らなかった。地上通信線もなければ、携帯電話もインターネットもなかったのである。「家族のことで知ることができたのは、CNNで見たことだけだったのです」
それらの報道は、残虐行為や子どもの兵士のことで占められていた。それよりも、ママワは妊娠していたのだった。彼女は、リベリアに残した夫や子どもたちの生死もわからない中、ニューヨークで男の子を出産した。
出産後、ママワはリベリアへ行って家族を探さなくてはならないと思っていた。ママワは隣国のシエラレオネに飛び、国境で家族を知る女性兵士を見つけ出し、兵士は快く家族を連れだしてくれた。
再会の瞬間を思うと、今でも涙が流れる。「1週間ほどで、彼女は私の家族を連れてきてくれたのです。本当に喜びにあふれた日でした。とてもとても幸福で、あの日のことはけっして忘れることはないでしょう」とママワは語る。
ワエートゥが故国を去ったのは5歳の時だった。家族はヒューストンに落ち着いたのだが、ワエートゥにはトラウマが残り、引っ込み思案で悪夢に悩まされた。ママワは少しでも気持ちを和らげることができればと思い、子どもたちを元気づけるために、芸術に触れさせたのだった。
言葉に心を救われて
「私は読んでは書き、また読んでは書きました」ワエートゥは言う。「それは私の心を癒すのを助けてくれたのです。そして自分の声をみつけることもできたのです」
ワエートゥはリベリアの子どもたちにも、彼女が見つけたような「心のよりどころ」を得る機会をもってほしいと願っている。ブックストアで本を読んでいる子どもたちを見ながら、私がやらなくてはという感覚にかられるのだと言う。毎日学校を出て水の入った袋を売りに行かなくてならない少女たちがいること、そして袋をすべて売ってしまうまで家には帰れない少女たち、そのような少女たちは宿題をする時間もないことを、ワエートゥはわかっている。
「家計をやりくりするために、学校を出た娘を売りに出すような女性に、私もなっていたかもしれないのです」感情が喉からあふれるように彼女は語った。「だれかがケアすることで、子どもたちが戻ってきて、自分の人生を生きることができることを私は望んでいるのです」