1982年、ソビエト連邦市民、西側代表・インターネットと邂逅(かいこう)する

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旧ソビエト製スーパーコンピューター K-340A の残骸。チェルノブイリにて (アレキサンドル・ポロニエツキー、CC, Flickr)

旧ソビエト製スーパーコンピューター K-340A の残骸。チェルノブイリにて
(アレキサンドル・ポロニエツキー、CC, Flickr)

ソビエトとインターネットの組み合わせは一見逆説的であり時代錯誤とも感じるが、ソビエト連邦(以下、ソ連邦と略す)でもインターネットが利用されていた。ソ連邦を表す「.su」を使ったドメイン名は今でも取得可能である。ICANN(インターネットの資源を管理する団体)からは廃止勧告が出ているが、インターネット上では今でもソ連邦が現役なのはその様な経緯があるからだ。

ソ連邦でインターネットが利用可能になったのはゴルバチョフが進めたペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が始まってからと言うのが研究者の一致した見解だ。この二つの成果として1987年〜88年にソ連邦初のインターネットプロバイダが登場し、1991年には数百人がUNIXネットワークを利用していた。

しかしソ連邦の市民が将来インターネットと呼ばれる事になるコンピュータネットワークを初めて使用したのはこれよりもずいぶん早い1982年だ。
当時このネットワークは主に米国や西欧で利用されていたので、ソ連邦からの利用者の登場は、当然のことながら大きな驚きをもって迎えられた。

1982年と言えばレオニード・ブレジネフはまだ健在で、ソ連軍はアフガン侵攻後の泥沼で苦しんでおり、ペレストロイカの経済改革や情報公開はまだまだ先の事であった。
それに、ソ連邦は鎖国に近いような状況だった。国外への渡航は厳しく制限されており、サミズダートと呼ばれる地下出版された文書を西側の国に持ち出すためには非常な危険を冒さねばならなかった。ゴーリキ(現在のニジノ・ノブゴロド)市で自宅軟禁されていたアンドレ・サハロフ博士をはじめ、市民は当局の監視の目におびえながら暮らしていた。

一方西側諸国では情報を自由に交換する手段としてコンピュータネットワークが活用されるようになっていた。現在もインターネットの一翼を担っている TCP/IP プロトコルが米国で初めて実装されたのは1982年だった。一方フランスではWebの祖先みたいなミニテルというサービスに人気があった。

ソ連邦初、インターネットのパイオニア

1982年春、ある朝アナトリー・クリョソフはモスクワにある VNIIPAS(全ソ応用自動システム研究所)に出頭していた。35歳の生化学者に与えられた唯一の使命は、西側の学者が言う「ミーティング」に参加することだった。「ミーティング」とはコンピュータのメッセージ交換サービスを利用した、国際的な科学者間の意見交換の新しい形態であった。このチャットとメーリングリストの前身のようなサービスは西側諸国では何年も前から利用されていたが、ソ連邦市民が参加するのはこれが初めてであった。その当時のソ連邦にはモデム経由で西側に接続可能なコンピュータは1台しか存在せず、その装置はクレムリンに隣接したVNIIPAS本部に設置されていた。

全てが始まったのはその数週間前だった。ソビエト科学技術関連審議会副議長ジュリメン・グビシアニは理由を明かさずクリョソフを召喚した。この老科学者はコンピュータを利用したオンライン会議についての話をしたが、中身について分かっていないことは明らかであった。そしてミーティングにはソ連邦の威信をかけても参加せよと上層部から指示があったことを伝えた。

クリョソフが代表として選ばれたのは、彼が専門とする生化学が開催予定のミーティングの議題となっていたからだ。会議の趣旨と目的を考えるとソ連邦の代表としては彼しかいない、一方で彼は治安上の理由から出国を認められていない「国外渡航禁止者」であった。
彼は米国、ハーバード大学の客員研究員として2年間を過ごしたことがあったので、当局は彼がアメリカに通じる危険性があると考えてパスポートを没収したのだ。この事はクリョソフの学者としての経歴に大きな支障となっていた。

一見すると、ソ連邦の代表としてこの様な経歴の人物が選ばれた事は、オンライン会議とはいえ大変矛盾している様に感じる。
これまでの国際会議であればKGBは決してクリョソフのような「国外渡航禁止者」の出国は認めなかったであろう。このような間違いが起こった原因、ソビエトアカデミーでも治安当局でも、オンライン会議がどの様なものか誰も把握できなかったからだと言える。
彼らにとっての関心とは、クリョソフの身体がソ連邦内に留まっている事だけだったのだ。オンライン会議を行うコンピュータのサーバーはストックホルム大学にあって、この通信の盗聴には新しい技術を必要としたため、KGBでは無視を決め込んだ。結局のところ、このミーティングは生化学に関するもので、気にするほどのものではないと判断したのだ。

KGBにおびえながらもオンライン上の自由を満喫

オンライン会議に使用した端末機はソビエト製 ES-EVM コンピュータで、IBMのクローンマシンだった。このコンピュータには、公式にはソ連邦にたった1台しかないはずの通信速度360ボーの旧式モデムが接続されていた。通信速度を比べるとは2000年代に広く普及していた56kモデムのたった22分の1だった。つまりこのモデムは一秒に1字(訳注)しか表示できなかったのだ。
当時のことを著した彼のメモによると、この貴重なモデムには護衛が付いていて驚いたこと、この様な体験は子供時代を過ごしたスターリン下のカプースチンヤール閉鎖都市以外では初めてであったと語っている。
(訳注: 360ボーモデムの通信速度は、画面に表示される文字を逐次読むことができるくらいの速さですが、ネットワークの状況によりもっと遅くなることもあります)

1970年代から80年代にかけてソ連邦で開発された EVM ES-1033 コンピュータと操作盤 提供: Computer-museum.ru

1970年代から80年代にかけてソ連邦で開発された EVM ES-1033 コンピュータと操作盤 提供: Computer-museum.ru.

警備兵に守られているとは言え、コンピュータルームに入れば中には誰もいなかった。1人で初めて接続に成功すると、「コンニチハ コチラハ ストックホルム ダイガク デス」とメッセージが表示された。

接続成功後、クリョソフは誰にも干渉されず自分の望み通りに話したり、意見交換を行うことができた。コンピュータルームが警備兵にガードされていることも、彼が国外渡航禁止者であることも関係なかった。
1980年代初期のソ連邦は非常に閉鎖的な社会であった。サミズダートの地下出版をはじめ、反体制的な文化が西側に伝わることを当局は何としても防ごうとしていた。このような中でソ連邦にたった一台しかない、西側のコンピュータネットワークに接続できるコンピュータが、たった一人だけの利用者にもたらした状況はなんとも逆説的であった。クリョソフの遭遇した状況は本当に例外的なものだった。

コンピュータネットワークを好きなだけ、どんな事にでも利用できる事がわかってきて、自分が置かれている状況が特別であるとの思いはますます強まった。西側諸国の研究者とオンラインで討論を行う一方、すぐに本来の使命とは関連性のないチャットルームにもアクセスするようになった。VNIIPAS の所長もまた、クリョソフがここでコンピュータを利用することに賛同を示した。西側の学術コミュニティーとのチャンネル維持は VNIIPAS の目的にもかなっていると考えたのだ。クリョソフはいつでもこのコンピュータを利用できるようになって、その後数年間たった一人でこのコンピュータを使い続けた。1986年まで VNIIPAS に毎日のように出向いて、本来は禁止されている活動を合法的に行なうようになった。それは西側の学者といかなる問題についても、検閲なしに、誰に指図されることなく自由に論議することであった。

検閲からの自由

ほぼ4年間の間に、クリョソフは次々と登場する新しいインターネットプロトコルを習得し様々なオンラインミーティングに顔を出すようになった。ソ連邦市民のインターネットへの参加は大いなる驚きと歓迎をもって迎えられた。ソ連邦でビジネスを行いたいと言うアメリカ人宇宙飛行士と面会し、一緒にサウナに行こうと誘ってくれるストックホルム大学の女子院生との出会いもあった。インターネットからの情報のお陰で、ソ連邦では新聞に載らない世界のニュースを知ることができた。例えばスウェーデンの友人は「ウィスキー・オン・ザ・ロック」と呼ばれる、スウェーデンのカールスクルーナ海軍基地近海でソ連邦の U-137 潜水艦が座礁した事件を知らせてくれた。冷戦下に発生したこの危機は西側では大々的に報道されたが、ソ連邦では伏せられたまま全く報道されなかった。

アナトリー・クリョソフ 2008年 写真はWikimedia Commonsより

アナトリー・クリョソフ 2008年 写真はWikimedia Commonsより

クリョソフはコンピュータネットワークを介して検閲なしに、自分の研究論文を国外で発表する事にも成功している。ソ連邦の研究者が国外で研究論文を発表するには、グラブリトと呼ぶ検閲機関の許可が必要であった。思想上、国家保安上の理由で書き替えや不許可になった論文や出版物は数えきれなかった。当時、研究者が未検閲の原稿を国外に持ち出す事は違法であり非常に危険な事であったが、クリョソフはインターネットに接続し電子メールをたった1本送るだけでそれに成功したのだ。

冷戦下、鉄のカーテンをすり抜けてのネットサーフィンは1987年に終了した。ミハエル・ゴルバチョフが政権を掌握後、国外渡航禁止が解かれクリョソフも外国に行けるようになったからだ。彼は米国で入手したIBMのコンピュータを持ち帰り、長い間 VNIIPAS で使用していたモデムを使ってインターネットに接続した。所長は友情の印としてこのモデムを彼にプレゼントしたのだ。クリョソフをはじめとし、1987年には自宅からコンピュータネットワークに接続するソビエト市民が現れ始めた。

2010年に出版されたクリョソフの回想録「インターネット、ある科学者の記録」koob.ru.より

2010年に出版されたクリョソフの回想録「インターネット、ある科学者の記録」koob.ru.より


その後彼は米国に移住し現在も居住している。最近彼は自分の体験を一冊の本にまとめた。ロシア語版しかないのが残念だが、検閲を一切介さずに元の情報源にあたる事のできる特異な状況と、もし発覚したらと日々恐れていた様子が綴られている。

非常に幸運な事に、彼がコンピュータネットワークを開拓していく途中で KGB に目をつけられる事は1度も起こらなかった。個人を国家の管理下に置く政治体制は、急激な技術革新を前にして、国家も治安当局も適応するすべを失ってしまったのだろう。
逆説的ではあるが、クリョソフがインターネットの抜け穴を使って、ソ連邦を抜け出し、知恵と勇気をもって全世界とつながり自分の世界を広げる事に成功した理由は、全体主義国家の硬直性そのものにあるのだ。

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