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多くの名前をもつラテンアメリカのお菓子

カテゴリー: ラテンアメリカ, アルゼンチン, ウルグアイ, コロンビア, ペルー, メキシコ, 市民メディア, 食

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たとえどんな名前で呼ばれようと、それはアルファホレスになくてはならない材料である。キム・ラブによるFlickerの画像(CC BY-SA 2.0)

たとえどんな名前で呼ばれようと、それはアルファホレスになくてはならない材料である。キム・ラブ [1]によるFlickerの画像(CC BY-SA 2.0)

スペイン語でドゥルセ・デ・レチェ、または、マンハールブランコマンハールアレキペカヘタと呼ばれているものがある。この名前はすべて、同じ伝統的な食材 [2]を指している。その食材とは、キャラメルミルクの一種で、ラテンアメリカでは家庭でも製菓産業でも菓子作りにおいてなくてはならないものだ。

毎年10月11日はこの菓子を祝う「世界ドゥルセ・デ・レチェの日 [3]」だ(この名称が最も一般的)。その起源にまつわる説は多くあり、なかでもアルゼンチンにおけるものが最も有名 [4]である。

[…] el 11 de octubre [de 1829], [el militar y político argentino] Juan Manuel de Rosas [5] y su oponente político, [el militar y político argentino] Juan Lavalle [6], se reunían para firmar un acuerdo de paz en la estancia “La Caledonia” en Cañuelas.
[…] una criada estaba en la estancia preparando la lechada (leche caliente con azúcar) con la que Rosas tomaba su tradicional mate. […] llegó el General Lavalle tan cansado que se tiró a dormir una siesta en la hamaca que pertenecía al dueño de casa. Frente a ese panorama, la criada salió desesperada a buscar a la guardia y olvidó la mezcla cocinándose en la olla. Cuando regresó a su puesto, ya se había convertido en una pasta espesa y de color marrón.
Con miedo, le confesó a Rosas lo que había pasado con su lechada [quien] lejos de enojarse, probó lo que había en el recipiente y, tanto le gustó, que se lo convidó a Lavalle.

[略]1829年10月11日、アルゼンチンの政治家であり軍士官でもあったフアン・マヌエル・デ・ロサス [7]と、彼の政治的ライバル(同じく政治家・軍士官)のフアン・ラバージェ [8]は、和平合意書に署名をするためカニュエラスのラ・カレドニア農場で会うことになった。

[略]農場では、メイドがレチャダ(砂糖入りのホットミルク)を作っていた。ロサスはいつも伝統的なマテ茶にこのレチャダを入れて飲んでいた。[中略]ラバージェ将軍は到着後、あまりに疲れていたので農場の主人のハンモックで眠ってしまった。メイドはこれを見て驚き、それを伝えようと護衛のもとに駆け込んだ。そして、調理中のレチャダのことを完全に忘れてしまっていた。彼女が調理場に戻った時には、それはすでに煮詰まった茶色のペースト状になっていた。

彼女はおそるおそる、レチャダがどうなったかについて、ロサスに白状した。彼は怒る代わりに、鍋の中身を味見してみたところ、それを大そう気に入り、ラバージェにも差し出した。

ドゥルセ・デ・レチェについては、他にもっと昔の話 [9]もある。

Otras leyendas aseguran que en Chile el Libertador General San Martín lo degustaba en su estadía tras su gesta Libertadora y que pronto se trasladó a Mendoza y luego a Buenos Aires.
En Francia dicen que el hallazgo (accidental) ocurrió en la campaña Napoleónica, los veteranos enrolados con el corso, recibían a diario una ración de leche azucarada caliente, un cocinero que estaba preparando la misma, a quien asistió el fragor de la batalla, abandono la olla, con la leche y el azúcar en la hornalla encendida.
Al hervir se transformo en Confiture de Lait (Dulce de Leche), y el cocinero entró en la historia francesa, como su inventor en el año 1815.

チリに伝わる逸話もある。解放軍のサン・マルティン将軍は、解放戦争の後、チリ駐留中にその菓子を味わっていた。菓子は間もなくメンドーサに持ち込まれ、その後、ブエノスアイレスに渡った。

また、フランスの言い伝えでは、この菓子はナポレオン戦争時代に偶然できたものだという。当時、補充された老兵には毎日砂糖入りのホットミルクが配給されていた。ところがある日、料理人がミルクと砂糖の入った鍋を火にかけたままにしてしまった。

沸騰して、それはコンフィチュール・ド・レ(ドゥルセ・デ・レチェ)になった。こうして、1815年にこの料理が考案されたことがフランス史に記された。

いずれにせよ、毎年10月11日 [3]「世界ドゥルセ・デ・レチェの日」には、この美味なる一品をたたえるために様々なお菓子やデザートの品評会 [3]が開かれている。こうした品評会では、一般の人々もすべての種類のスイーツを味見したり、購入したりすることができる。また、料理人もレシピの秘密を一般に公開してくれる。

祭典の日を待ちながら、人々は様々な呼び名でこの有名なミルクキャラメルについてツイートしている。

アレキペ、ドゥルセ・デ・レチェ、マンハールブランコ。このお菓子の起源とオリジナルレシピはこちら。あなたはどのくらい好き?

発祥の地はバジェ・デル・カウカ県のグアダラハラ・デ・ブガだと思ってた。……マンハール、アレキペ……マンハールブランコ

僕は、ドゥルセ・デ・レチェをまるまる一瓶食べてすっかり一人前のデブになった。

アレキペを添えたチュロスに対する私の愛は、とても純粋で偽りのないもの

結局のところ、何と呼ばれていようと、どこ発祥であろうとたいした問題ではない。重要なのは、伝統的なデザートやお菓子が、ドゥルセ・デ・レチェなしには考えられないということだ。

校正:Rie Tamaki [18]