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ハリケーンに思うこと バハマ人学者からのメッセージ

カテゴリー: カリブ, バハマ, 市民メディア, 歴史, 災害, 環境, 経済・ビジネス, 開発, 架け橋

(原文の掲載は2017年9月です)

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バハマ諸島のハリケーン。画:ウィンスロー・ホーマー(1898年)。画像はメトロポリタン美術館のプロジェクトの一環で、ウィキメディア・コモンズへ寄贈された。

文:ニコレット・べセル

この記事はブログ・ワールド [2]に原文が掲載され、著者の許可を得てここに再掲載しています。

私と同世代の人なら誰でも知っていることだが、私はハリケーンを軽々しく考える人間ではない。17歳の時にハリケーンを主題に長い論文を書いた。執筆のためにはハリケーンの背景の科学的掘り下げが必要だったし、バハマ国(以下、バハマ)にハリケーンが与えた影響を調査するため、過去の記録にもあたる必要があった。

1929年のハリケーンのことはもちろん知っていた。私の祖母世代はそれを生き抜いた。祖母たちがよく語って聞かせてくれたのは、昔の辛い日々のこと、毎年ハリケーンがやって来ては首都ナッソーの真上を通過していたことだった。手許にあった歴史書(『バハマの歴史:A History of The Bahamas [3]』マイケル・クラトン著、1968年、『バハマのストーリー:The Story of The Bahamas [4]』ポール・オーブリー著、1975年)には更に古いハリケーンについての記述があった。それは1866年に同様にナッソーを荒廃させたものだった。2つのハリケーンについて、私は手に入る限りの全てを読んだ。それから10年ばかり私は「ハリケーン預言者」となり、家族に(実際のところ、耳を傾けてくれる人なら誰にでも)備えをせよと毎年警告していた。なぜなら、当時ナッソーは約20年も大型ハリケーンの襲来を受けていなかったものの、私はただ知っていたのだ、それは時間の問題だろうと。

まあ周知のように、その通りだった。2001年、ハリケーン・ミシェルがニュープロビデンス島(訳注 ナッソーのある島)を直撃し、その目がナッソー上空を通過した。次に2016年にはハリケーン・マシューがほぼ直撃。マシューの目は、直撃の数時間前にわが島のすぐ西側の海上へと進路を変えていた。だが、1920年代および1800年代のハリケーンほどに首都へ打撃を与えたものはいまだかつて存在していない。

以上について私が言いたいことはふたつある。ひとつ目は過去と、そこから学べることについて。ふたつ目は未来と、得た教訓の活用法についてだ。

過去が教えてくれること

歴史的には、バハマはアメリカ合衆国(以下、米国)同様、ハリケーンの最も一般的な進路から外れて位置している。バハマ諸島の大部分は北回帰線より北方にあり亜熱帯に属する。そして少なくとも20世紀の終わりまで、ほとんどのハリケーンは熱帯で発生しその内側に留まる傾向があり、大西洋を横断してカリブ海へ進み、速度を上げて小アンティル諸島を通過していくという具合だった。これはカリブの人には災難だがバハマにとっては幸いなことで、カリブの島々は山がちなため勢力が山によって弱められてしまうのだ。結果として、たとえイネズ [5]デイビッド [6]ジョージ [7]のような大型ハリケーンであってもバハマに到達するまでに散り散りとなり、カテゴリー1か2あるいはトロピカル・ストーム(熱帯暴風雨)にまで弱まっているのが非常に一般的だった。

これまでの地球の気象パターンはおよそ30年周期で繰り返すものであった。ところがそのパターンにある一定の変動がみられるようになった。その影響を受けて、ハリケーンは北寄りに発生しがちになりバハマや米国東海岸にも影響を及ぼす傾向が強まった。こうしたハリケーンは、陸地や山に阻害されることなく大西洋上を進み、勢力を保ったまま米国内陸に達することとなった。1866年にバハマを襲ったハリケーンはその一例で、ハリケーンの位置・強さを把握するシステムが開発されて間もないころのハリケーンの一つだ。(このハリケーンは強力なカテゴリー4だったと考えられている。)1866年のハリケーンの強さを把握したときの主要な情報源は、移動中のハリケーンから得られた気圧データである。(詳細は、ウェイン・ニーリーの本を読んでほしい [8]。)それから1899年、再び強烈なハリケーン [9]が来た。次に1926年から1932年にかけてカテゴリー4・5のハリケーンが続く。次に1965年のベッツィ。次に1992年のアンドリューだ。

バハマのハリケーンについて学びたい方へ。どなたでも、どんなことでも、ウェイン・ニーリーを参照してほしい [10]。ニーリーはエキスパートだ。ソーシャルメディアで話を聞かせてくれる人を探しているなら、彼の見解をチェックしてほしい。これは彼の趣味だが、トレーニングでもあり、仕事でもある。

つまりバハマの大人たちにとって、壊滅的なハリケーンを一生の間にせいぜい1、2度しか経験しないというのは、少なくとも20世紀においては十分ありうる話だったのだ。私の父もそのひとりだ。1938年から1987年までの生涯の間に、父はたった1つ大きなストームを経験した。1965年のハリケーン・べッツィだ。1970年代、父はハリケーン警報が出るたびにハリケーン・シャッターを建て付けていたが、結局ハリケーンは海上で消滅してしまうか、多少の風と雨にすぎない事ばかりだった。そして父はぶつぶつ言っていた。我が家のハリケーン・シャッターは重たい木製で、窓枠にはめ込みツーバイフォーの角材で固定するものだった。建て付けも取り外しも簡単ではない。せっかく建て付けても少々のストームか何かだった時はただ落胆するばかりで、父は季節の終わりまで取り外すのを拒んだ。家族共有の部屋は外してくれたが、閉ざされた真っ暗な寝室で私たちは夜を過ごしたものだった。

私が想像するに、若いバハマ人たちにとっては、強烈なストームを最低でも2度経験することなく一生を終えるという可能性は考え難いだろう。直近の25年間は従来より長期に渡って、数々のハリケーンがバハマ諸島に影響を及ぼした期間だった。その筆頭がハリケーン・アンドリューで、エルーセラ島を東側から襲った時はカテゴリー5の勢力だった。続いて、フロイド、ミシェル、フランシス、ジーン、ウィルマ、アイリーン、アイク、サンディ、ホアキン、マシュー、イルマ、そしてホセも可能性がある。ハリケーンに作用してきた歴史的な気候パターンは変わってしまった [11]。1780年代から1990年代にかけ支配的だった30年周期の気候サイクルは、新サイクルに置き替えられ、いまだ我々はそのパターンを見い出せていないのだ。

ここまでの全ての話で、私の頭のなかに一番衝撃を与えたのは気候変動についての必然的論争 [12]ではない。バハマのハリケーン史のこの調査のなかで、私が衝撃を受けたのはひとつの明白な事実だ。助けを求めて祈り、救助や清掃活動に従事する中で、我々はあることを見落としがちである。それは、現代のバハマは地球上でほぼどこの国よりも、ハリケーンと上手くつき合っていけるということだ。

その理由の一部は、バハマ特有の地理形状からくるものだ。バハマには川がなく洪水や堤防決壊が発生しない。バハマには山もなく土砂崩れが発生しない。この2つはハリケーンの致命的二次被害としては代表的なものだが、バハマでは起こらない。だがハリケーンによる一般的な死亡原因は他にもあり、歴史上の記録を掘り起こせばそれが何かがわかる。高潮による溺死(1866年および1929年にアンドロス島で発生)。それから、屋根が吹き飛ばされて家屋が崩壊し、落ちてくる破片による死亡だ。そして1930年代以来、バハマの家屋崩壊件数は大きく減少したままである。

なぜなら我々はストームを想定した建築術を学んだからだ。私が育った家が建てられたのは1930年代で、1929年のハリケーン後の都市再建中だった。建設業者はその家をどんなストームにも耐えられるように造った。鉄筋コンクリート造で、屋根は壁にしっかりと固定された。すべてのドア上部に通気口があり、風が抜けるようになっている。その家は建設時からずっと、構造被害なくハリケーンを耐え抜いてきている。

私が現在住んでいる別の家は1950年代に建てられ、やはり鉄筋コンクリート造だ。こちらは地面から1メートル前後持ち上がっている。(凹凸のある地面に建てられている。)私の両親の生家はともに木造だが、片方はまだ建っており、もう片方もブルドーザーで取り壊されなければまだ建っていただろう。祖母の家の崩壊後にひとつ分かったことは、その家は船大工が造ったもので、鉄くぎは使用していなかったことだ。留め付けは木製のペグでなされ、時間とともにそれが膨張し、よりしっかりと留まる仕組みだった。ハーバー島はハリケーン・アンドリューがカテゴリー5の時に打撃を受けたが、島の家々はまだ建っており、一方で米国マイアミ市は、アンドリューが若干弱まった後の襲来だったが、町の大部分が壊滅した。

これは我々が得た教訓である。バハマ人はストームに対応した建築術を知っている。 それは我々のこの諸島への順応のひとつである。なぜなら過疎の島々では、避難こそが21世紀流の贅沢であるが、通常我が国では大半の人々にとってそれは不可能だからだ。我々はハリケーンに耐える住宅建築術を発展させ、その一部は既に建築規定として定められている。もちろん今日できることは他にもまだあるが、たぶんコストの理由で実現していないのだろう。我々の祖父世代が知っていたのは、建物を建てるにあたっては、強さと見栄えのみならず、高さが必要だということだ。伝統的家屋の大半はブロックに載り地面から1メートル前後持ち上げられていて、現代のものよりはるかに浸水されにくいのだ。

そして、私の思索のふたつ目はここから導かれる。

未来がもたらしうること

私は今では、人生の大部分をハリケーンの観察と研究に費やしてきた。ハリケーンには敬意を払っている。それも深くだ。 しかしバハマ人は、我々が今ハリケーンを恐れているような仕方でハリケーンを恐れる必要はないと私は信じる。それどころか、我々は自身をしっかりと見つめ、我々が大型ストームをこれほどまで上手く扱える理由を解き明かすべきだと、私は信じている。もちろんその理由には、バハマが地理的に平坦で山も川もないことや、じっとストームをやり過ごして後の物的被害を目にしても落ち着いていられるバハマ人の性格もある。 だが、我々が自ら開発してきたスキルも理由の一つに挙げられる。

バハマ人は、ハリケーンを耐え抜く建物の構築技術にかけては全世界を凌いでいるといっても言い過ぎではないだろう。 とりわけ、大型ハリケーンの発生がますます増加する傾向がうかがわれ、大型化・強力化し、過去のパターンから逸脱している事実を踏まえると、この技術は我々が世界で共有できる重要なスキルなのだ。

以上の理由から、我々は地球規模のハリケーン分野に参入すべきだと、私は信じている。

下記が私の信ずるところだ。

私たちは正真正銘のチャンスに直面しているのだ。
このチャンスを生かす判断力と勇気を私たちが持ち合わせていることを私は祈る。

ニコレット・ベセルはバハマ人の教師・ライター・人類学者。バハマ文化事業の指導役を務めた。現在、カレッジ・オブ・バハマにて社会学の常勤講師。ブログはブログワールド [13]、ツイッターアカウントは@nicobet [14]

校正:Masato Kaneko [15]