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スコピエ地震から半世紀。2019年、ポーランドの建築・芸術的貢献の記憶が蘇る

カテゴリー: 東・中央ヨーロッパ, ポーランド, マケドニア共和国, 人道支援, 国際関係, 市民メディア, 朗報, 芸術・文化, 開発

(原文掲載日は2019年7月26日)

1963年のスコピエ地震犠牲者を弔うモニュメント。写真:グローバル・ボイス。CC BY

毎年7月26日、北マケドニア共和国の首都スコピエの市民は、1963年にこの街を襲った地震に思いを馳せるとともに、都市の再建を手助けした国際的な活動へ謝意を示す。マグニチュード6.1のこの地震 [1]で、スコピエ市の大部分が瓦礫(がれき)と化した。1100名が死亡、20万名以上が家屋を失い、数千名が重症を負った。当時スコピエは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国のひとつ、マケドニア社会主義共和国の首都であった。

被災者の援助や市の再建のため、大規模な人道支援が集まった。ユーゴスラビアの全連邦国だけではなく、当時の冷戦下でいつもは分断されている国際社会からも支援が寄せられた。米国のジョン・F・ケネディ [2]大統領は、自ら指揮して事務手続きを省略させ、米国の人道支援を早急に進めた。一方、ソビエト連邦のニキータ・フルシチョフ [3]首相は、ユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーと共に被災地を訪問した。震災から数日のうちに、現地入りした米兵とソ連兵らは、互いに隣り合って人道支援を行った。

国連の援助を受け、世界中から集まった建築家、技術者、建設作業員らが市の再建に取り組み、モダニズム [4]メトロポリス [5](大都市)のモデルを造り上げた。こうしてスコピエは「国際的な連帯の街」という愛称を得た。国連によるスコピエの計画案は一部しか実現されなかったものの、この時代のブルータリズム [6]様式の建築は現在でも多数残っており [7]、また、アルジェ、メキシコ、プラハなど、再建に協力した国、都市、人の名前を冠した通りの名前は今も健在だ。

再発見されたポーランドの芸術的貢献

今年の震災追悼式典は、ポーランドのクラクフ市で開催された展覧会のおかげで、より一層意義深いものとなった。この展覧会では、当時、ポーランド人の芸術家らが救援活動の一環として寄贈した作品を展示している。

第二次世界大戦中にワルシャワ等の都市が壊滅的被害を受けていたポーランドは、その再建の経験を生かし、震災後の復旧活動において主要な貢献を果たした。その象徴的存在である近代美術館 [8]は、ポーランド屈指の建築家らの協力で建てられたものだ。建築家アドルフ・チボロウスキ [9]の名を持つストリートが今も存在する。

2014年、ポーランドの最高外交職位である大使として、ヤツェク・ムルタノフスキがスコピエに着任した。着任後、ムルタノフスキ大使と妻のキンガ・ネットマン=ムルタノフスカは、スコピエに残るポーランドの足跡を調べ、スコピエ近代美術館において個性豊かな20世紀ポーランド美術の作品群を発見した。これは、震災後に連帯の気持ちを込めて芸術家らにより寄贈されたものであった。この「タイムカプセル」はポーランドでは事実上忘れ去られていた。他にも多数の文化的な結び付きが夫妻の手で次第に明らかになった。展覧会の開催や、本の出版などの活動の結果、ポーランドとスコピエのつながりが広く論評されるようになった。夫妻の活動の一部は、「スコピエ 連帯の芸術」と題する以下の短編映像 [10]に記録されている。

グローバル・ボイス宛てのEメールで、ヤツェク・ムルタノフスキ大使、キンガ・ネットマン=ムルタノフスカの夫妻は、国同士、時代同士を結びつけた彼らの尽力の原動力とは何だったのか、次のように説明してくれた。

Kinga Nettmann-Multanowska and Jacek Multanowski during his tenure as Polish ambassador to Macedonia. Courtesy photo, used with permission.

Skopje must look familiar to people who have lived or spent some time in Warsaw. Destroyed and rebuilt. The same mix of styles, a similar urban space. And, on top of that, scattered around the two cities are the “islands” of modernist architecture, which we, Poles, began to rediscover just a few years ago. Post-war architecture (after 1945) has become a fashionable topic in Poland – redefined, mainly by young people. Today, some of these buildings, until recently abandoned and neglected, are considered examples of functionality and elegance. They are receiving a second life, and with that comes their new function: cafes, galleries, centers of culture and urban activity.

The 1963 earthquake that destroyed Skopje moved the whole world, including Poles, whose great engagement should not be surprising. Only 18 years before WWII had ended, leaving Warsaw totally destroyed. The rebuilding of the Polish capital started immediately, with great devotion and enthusiasm.

We are too young to remember the emotions accompanying the gestures of solidarity shown by Poles in Skopje, but we met people who told us about it. In their memories Skopje, the city that attracted professionals from all around the world, was cosmopolitan, open and modern. And it was in that spirit that the city was created anew after the earthquake.

We, thanks to our Warsaw experience, have been able to find this spirit in today's Skopje. The Polish heroes of the reconstruction: Adolf Ciborowski (Manager of the UN Skopje Urban Plan Project), “Tigers” (a team of Warsaw-based architects: Wacław Kłyszewski, Jerzy Mokrzyński, and Eugeniusz Wierzbicki; designers of Skopje’s Museum of Contemporary Art), Stanisław “Agaton” Jankowski (head of the “Polservice” team elaborating the Skopje urban plan), alongside numerous artists who donated their works to the city in a gesture of solidarity, are no longer alive. But it was they and the others who gave Skopje its identity – “the city of solidarity”, which is and should be its authentic and natural “brand”.

在マケドニアポーランド大使在任中のヤツェク・ムルタノフスキとキンガ・ネットマン=ムルタノフスカ夫妻。写真は厚意により提供。使用許可済。

ワルシャワに住んだり、滞在したことのある者は、スコピエの街にきっと親しみを覚えるでしょう。破壊と再建。混在する様式と、同じような都市空間。何よりも、この両都市にはモダニズム建築が「小島のように」散りばめられている。ここ数年来、私たちポーランド人はその事を再発見するようになりました。ポーランドでは、主に若い人々の間で戦後の建築物(1945年以降)が再評価され、注目を浴びています。つい最近まで放置され見向きもされなかったこうした建物の一部は、現在では機能性と優雅さを備えた実例として捉えられています。建物は、カフェ、ギャラリー、文化センターや都市活動の場などの新たな役割を与えられ、第二の人生を歩んでいます。

1963年にスコピエを壊滅させた地震は、ポーランド人を含む世界中を動かしました。ポーランドの人々が大きく携わったことは驚くべきものではありません。そのわずか18年前、ワルシャワ市は完膚なきまでに破壊された状態で、第二次世界大戦の終結を迎えました。偉大なる献身と情熱をもって、直ちにポーランドの首都の再建が始まりました。

当時、私たち夫婦はまだ幼かったため、ポーランド人がスコピエの人々に示した連帯感を取り巻く熱気がどのようであったのかを記憶していません。ですが、これらの話を聞かせてくれる人々に会いました。彼らの記憶によればスコピエは、世界中のプロフェッショナルを引き付ける、現代的で開かれたコスモポリタン都市だったということです。震災後のスコピエはそのような精神のもとで新たに造り上げられたのです。

ワルシャワの経験があったおかげで、私たちはこの精神を今日のスコピエに見出すことができました。再建に関わったポーランドの英雄は次のような人々です。アドルフ・チボロウスキ(国連スコピエ都市計画プロジェクトの責任者)、「タイガーズ」(ワルシャワを拠点とする建築家、ヴァツワフ・クルシェウスキ、イエジ・モクシンスキ、エウゲニウス・ヴィエルツビツキによるチーム。スコピエ近代美術館を設計した)、スタニスワフ・ヤンコウスキ―(通称アガトン)(スコピエ都市計画を練り上げた「ポールサービス」のチーム長を務めた)。このほかに、多数の芸術家たちが連帯の気持ちを込めてスコピエに作品を寄贈しました。皆、既に世を去っています。しかし「連帯の街」としてのスコピエ市の姿は、彼らを始めとする人々の力で形造られたものです。「連帯の街」は、正真正銘かつ本物のスコピエ市の「称号」であり、そうでなければならないのです。

ムルタノフスキ大使はスコピエでの職務を2018年に終えたが、一家は、この素晴らしい繋がりを人々へ広める活動を続けている。活動が実を結び、現在、クラクフ国際文化センターでは「スコピエ:連帯の都市・建築・芸術(Skopje: City, Architecture and Art of Solidarity) [11]」展が開催されている。ポーランド国民にとって、忘れ去られていた遺産をその旧都クラクフで直接鑑賞できるものだ。会期は2019年7月7日から10月20日まで。展覧会では70点におよぶ絵画、彫刻、線描画、版画作品とあわせて、当時の多数の写真、ドキュメンタリー映画、建築模型や都市計画の資料もあわせて紹介する総合的な展示となっていることが他にはない特徴だ。

「スコピエ:連帯の都市・建築・芸術」 [11]展の一部。写真:クラクフ国際文化センター。Meta.mk [12]より転載。

ニューヨーク近代美術館で2018年に開催された展覧会「コンクリート・ユートピアへ向かって(Towards Concrete Utopia) [13]」では、1948年から1980年までのユーゴスラビア建築が紹介された。これは、当時の個性豊かな建築が持つ、独特でありながら多元的な特徴に迫ったもので、スコピエも重要な都市のひとつとして取り上げられた。この際に展示された建築物や模型のうちの数点が、クラクフの展覧会でも展示されている。

スコピエの国際的遺産を甦らせる

2006年から2017年にかけて、スコピエの再ブランド化が図られた。VMRO-DPMNE(内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党) [14]を率いる二コラ・グルエフスキ [15]彼は現在、司法当局から逃亡中である [16])の右派ポピュリスト政権は、偏狭な国家主義者の固定観念から考えた、ヨーロッパの首都のあるべき姿を「バロック」と呼び [17]、これをスコピエの定番スタイルとして定着させようとしたのだ。

グルエフスキ政権により、スコピエにあったコスモポリタンとしての特色は非常に薄められてしまった。スコピエ2014 [18]と称する再構築プロジェクトの庇護下で変貌したスコピエの姿は、様々な [19]国際 [20]出版物 [21]で「俗悪な首都」と呼称された。市美術館に隣接する公園内に据えられていた震災犠牲者へのモニュメントさえも、スコピエ中心部の土地を「バロック」建築へ譲り渡すために、市の外れへと移設された。当時の首相が主張するこの地域の「美化」 [22]のためであった。

世界に開かれた国際都市としてのスコピエの遺産の修復は、民主化運動を進める人々にとっても一定の意義を持つものとなるだろう。活動家たちは、シティ・ショッピングセンター [23]などの歴史的建築物を「バロック」式ファサードで改造しようとする政府の計画へ反対を表明し、その保存を求めるデモを行った。マケドニアの多くのネットユーザーの間では、「#СкопјеСеСеќава [24](スコピエは憶えている)」というハッシュタグを付けて写真や情報を共有し、震災および復興期を偲ぶのが毎年の恒例となっている。

スコピエは震災を憶えている。1963年7月26日、午前5時17分。

校正:Mitsuo Sugano [29]

※2020/08/13 加筆修正しました。