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独立記念日に寄せて ベリーズの歩みと植民地時代のなごり

カテゴリー: ベリーズ, 市民メディア, 歴史, 行政, 架け橋

(原文掲載日は2020年9月21日)

祖母のバーニスと私。1995年の写真。著者提供。

この記事の原文は、セントラル・アメリカン・ニュース [1]に掲載されました。

私は歴史家になる運命だった。子どもの頃の夏休み、サマープログラムの予定がない時には、ロサンゼルス市アダムズ=ノルマンディ地区にある祖母宅で多くの時間を過ごすのがお決まりだった。生来知りたがりの(うるさいとも言う)子どもだった私は、祖母の写真アルバムや、クローゼットの中、思い出の詰まった箱の中身を、たびたびじっくり眺めたものだった。思い出いっぱいの箱の中には収集品や皿とともに、エリザベス女王の顔が描かれたポスターもあった。

世界中の人たちと同様、祖母は、ダイアナ妃や英国王室に関することなら大抵のことが好きで、スキャンダルも含めた全てに夢中だった。昼下がりにはアメリカのホームドラマを、夕刻にはニュース番組やスポーツの試合を観ていた祖母だったが、時たま、その合間にダイアナ妃の結婚式や葬儀が録画されたVHSテープを引っ張り出してきた。私たちはいつも初めから終わりまで観た。祖母の死後何年も経ってやっと、私はこのことを深く考えるようになった。英国の王領植民地だった頃のベリーズで育った祖母にとって、末の孫娘の私に英国王室について教えることが、なぜ重要だったのだろうか。

ベリーズは1981年9月21日に独立国家となった。中米諸国においては一番新しい独立だ。自治獲得までの道のりは長く、奴隷化、土地の奪取、領土紛争などの苦しい闘いが続いた。例えば、ベリーズは既に1862年に英国の王領植民地(訳注:英領ホンジュラス)として宣言されていたにも関わらず、グアテマラがベリーズを自国の領土と主張した。この主張によって、ベリーズ独立へ向けた模索は1980年代初頭まで長引く結果となった。1992年にグアテマラはついにベリーズを主権国家と認めた。ただし、ベリーズとグアテマラ双方の主張は近年まで続き、最終的に2019年に国際司法裁判所に持ち込まれた。

ベリーズにおける英国の植民地化は、カリブ海の多くの地域でそうであったように、侵略的で、普遍的に存在するものだった。ベリーズという国やそこに住むディアスポラ [2](訳注:ここでは、大西洋奴隷貿易により新大陸に渡った黒人たちを指す)の人生は、文化、政治、教育、各種記念行事を通じて、あらゆる局面で植民地化の影響を受けた。ベリーズの奴隷制は他のラテンアメリカやカリブ海の地域に比べると穏やかで暴力も少なかった、という古くからの通説があるが、これについてはベリーズの多くの学者や歴史家が異議を唱え、論争となっている。

ベリーズの奴隷制度はプランテーションとは無関係ではあったものの、やはり暴力的であり、一定の抵抗運動や自我の目覚めを生み出すに至った。奴隷にされた男性らは、木材の切り出し場で働いて一年の大半を過ごした。一方、女性らは家事に従事し、町に戻った後は入植者の家庭内で仕えた。ベリーズの奴隷制はカリブ海の他の入植地に比べれば「穏やか」だった、という政治的・学問的に誤った性格付けが存在したために、植民地時代からその数十年後に至るまで、植民地における人種間関係の捉え方には影響が及んだ。例えば、9月10日の記念日を祝うのは、とある伝承に由来する。黒人と白人入植者が互いに忠誠心を持ち、協力し合い、「肩を並べて」、圧政を押し付けるスペイン人の艦隊と戦った、というものだ。この話は、ベリーズ特有の人種を超えた協力の物語として語られるようになった。突き詰めて言えば、奴隷制度にまつわる歴史的状況は、ベリーズを周辺の国々から際立たせ、ベリーズ人の自我を構築する上でも役立ったのである。それはごく近年の植民地時代の終焉まで続いた。

ベリーズ人にとって、特に国外在住のベリーズ人コミュニティにとっては、9月は重要な月のひとつだ。9月10日はセント・ジョージズ・キーの戦いの日、9月21日は独立記念日である。米国イングルウッド市のハリウッドパークや、南ロサンゼルスのランチョパークでは大規模な祝祭が開催される。私はここで初めて、ベリーズ人のお祭りというものに接した。人種の壁で区切られたロサンゼルスという街で、国を離れてから数年あるいは数十年になる人々が、この時はひとつになって皆でベリーズの独立を祝う。

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2015年、米国ロサンゼルスにて、ベリーズの9月の祝祭の様子。BelizeinAmerica.net提供。

1961年のハリケーン・ハティの後に起きた不況の影響で、1970年代には大勢のベリーズ人が移民として米国へ渡った。つまり、私の両親を含めた当時の移民たちにとって、心に大切に抱く祖国の思い出は、独立前のそれだった。私の祖母の例のように、独立後数年経ってからベリーズを離れた人々の場合、物語、食事、祝祭などを通じて、ベリーズの伝統を守り、実践しつづけるという役目を負っていた。移民の人々に付いて回ることの多い、記念日を祝う行為には、祖国への憧れや憂いの気持ちが深く沁み込んでいる。

私自身が経験してきたベリーズとは、このようなベリーズの歴史や、家族が移民として米国へ来た事実を受けたものであり、独立前と後のベリーズの両方の複雑な視点から見たものだ。

例えば、クレオール語と対比を成す英語(しばしば「クイーンズ英語」とも称される)という言語である。多くの場合、ベリーズからロサンゼルスに来た人々にとって人前で英語を話すことはひとつの手段だった。英語を使えば、黒や褐色の肌の人々が常に攻撃の対象となるロサンゼルスという街において、移民を嫌う人々の言い分を巧みにすり抜けてゆくことができた。一方で、クレオール語を話すことで、時にはなにか得体の知れぬ、広義の西海岸のアングロ・カリビアンの一員にもなれた。

祖母のことを思い、祖母がベリーズ人を「黒い肌の英国人」と称していたことを考える時、私は、ベリーズ人としての自我を求めて交渉していた独立前後の歴史的な瞬間や、その世代の人々の中へ紛れ込んだような感覚になる。祖母は黒人でありつつ英国王室に愛着を感じていた。私にとって祖母は、アフリカン・ディアスポラの特有性と複雑性をいくらか教えてくれた最初の存在だった。祖母は自分自身を黒人である以前に英国人であるとみなしていた。これは、黒人を嫌う周囲の人々へ語り掛けるために祖母が使った特有の手段だったのだろうかと、私はたびたび考えた。つまり、カリブ海出身の黒人たちの大半が教え込まれてきた制度に、祖母も縋り付いていたのだろうか、と。

ベリーズの独立は、カリブ海や一部の中央アメリカにおいて英国の統治が様々な形で浸透していることを示す役割を果たしている。私はベリーズのディアスポラを研究する学者であり、またひとりのベリーズ系の人間である。私がベリーズを見つめる時、そこには愛おしさと批判の両方が込められている。

私は、先祖や愛する人々のことを考え、彼らがこれまで育み守ってきた美しい文化のことを考える。次に、植民地下で黒人や先住民たちが受けていた扱いに思い至り、彼らの重要かつ誠実な貢献なくしては成り立たなかった、この国の複雑な歴史について考える。

最近の報道 [3]では、バルバドスが英国のエリザベス女王を元首とする君主制を廃止し、共和制に移行する決定をしたという。これを聞いて真っ先に思い浮かんだのは祖母のことだった。祖母ならどう思うだろうかと考えた。1960年代から1970年代に最盛期を迎えた、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国における脱植民地支配の流れとよく似ている。祖母の言葉を借りて、私はこう思わずにはいられない。「ディス・ヤ・タイム・ノ・スタン・ライク・ビフォ・タイム。(ディス・イズ・ノット・ライク・ジ・オールド・デイズ:昔とは違うのだよ。)」

カリブ海の情勢は移り変わっていく。近い将来、ベリーズもまた、英国女王を置き去りにし、周囲の流れに従うのかもしれない。それでも私には、ベリーズの人々の人生に残る植民地化のなごりが、繰り返し繰り返し、思い出されるのだ。

校正:Ayumi Oda [4]