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かつてユーゴスラビアで大流行、忘れじのメキシコ音楽の替え歌

カテゴリー: ラテンアメリカ, 東・中央ヨーロッパ, クロアチア, コソボ, スロベニア, セルビア, ボスニア・ヘルツェゴヴィナ, マケドニア共和国, メキシコ, モンテネグロ, 市民メディア, 芸術・文化, 音楽
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3枚のアルバムのカバーアート 左から”Celovečernji the Kid’ (1983),”Pozitivna geografija’ (1984) ,'Mi imamos mnogo problemos’ (1987). 使用許諾不要

バルカン諸国のポップカルチャーをラテンアメリカと結びつけることはあまりないだろう。しかしメキシコ音楽はかつてのユーゴスラビアで何世代にもわたって大人気を博した。人々は最初は真剣に聞いていたが、やがて茶化して歌い出した。

1948年から後の冷戦時にユーゴスラビアが置かれた特異な立ち位置 [2]を考えると、このユーメックス現象はある程度説明がつく。この社会主義国はスターリン政権下のソビエト連邦に事実上敵対していたのだ。

パブリック・ラジオ・インターナショナル [3]とのインタビューで、スロバニアの作家ミハ・マジーニはこう語っている。「ソ連との決裂によって、この国はとても難しい立場に置かれることになりました。つまり東側諸国と西側諸国とのはざまに立たされたのです。(中略)そのために様々な問題に直面しました。映画館で上映する映画もそのひとつです。ハリウッドから『資本主義者の』映画を輸入するわけにはいきませんでした。かと言ってソビエトの作品をこれ以上買うことには抵抗があったのです」

チトー政権の解決策はメキシコから作品を輸入するというものだった。メキシコ映画は1950年代から60年代にかけて黄金時代を謳歌していただけでなく、題材によくメキシコ革命を取り上げていた。これは第2次世界大戦が終わり、社会主義国として再生しようとしていたこの国にとってまさにうってつけだった。

映画に感化されて、ユーゴスラビア連邦の全ての共和国から何十ものバンドが、メキシコ音楽をスペイン語やそれぞれの共和国で使われている言葉でレコーディングした。

最も有名なバンドのひとつがスコピオ(マケドニアの首都)のエンサンブレ・マグニフィコ [4]だ。彼らは25年以上も活動を続け、1983年に最後のアルバムをリリースした。

70年代までにこの国の音楽シーンは英国や合衆国のポップ・ロック音楽に席巻された。しかしそのようにアメリカ音楽の影響を受けた新しいバンドの中には、昔のマリアッチスタイルの替え歌を茶化して替え歌を作り演奏するものもいた。そんなパロディは最新のロックソングと同じくらい人気を博したのだ。

1983年のこと、セルビアのノビ・サド出身のシンガーソングライター、ドルデ・バラシェビッチがアルバム『セラブチェランジ・ザ・キッド(”Celovecernji the Kid”)』 [5](『ザ・キッドと一晩中』というような意味)をリリースした。このアルバムは大ヒット曲『ドン・フランシスコ・ロング・プレイ』をフィーチャーし、英語の歌詞が大袈裟なメキシコアクセントで歌われている。

この歌は『荒野の七人』 [6]『シェラ・マードレの宝』 [7]『ベラクルス』 [8]のような古典西部劇に登場するガンマンたちを思わせる名前を持つ主人公の物語だ。

You must be careful, my compadre,
you must be very careful if you going south,
because in mountain Sierra Madre
is very best for you to shut your dirty mouth.

O, there are banditos mucho danger,
they want your money and your horse.
You are a gringo, I mean, You are a stranger,
but you know everything of course

about famous and very popular
Don Francisco Long Play.

相棒、用心しなよ
南へ向かうんならしっかりと用心しなよ
シエラ・マードレの山の中じゃ
汚い口はきかないのが一番だぜ

超おっかない追い剥ぎたちが待ち伏せし
お前の金や馬を狙ってる
お前はよそ者でここじゃ新顔だけど
もちろん全てご存知のはず

悪名高いがみんなの受けは抜群
ドン・フランシスコ・ロング・プレイのことを

1年後、ベオグラードのポップ・ロックバンド、バヤガ&インストラクターズ(”Bajaga & Instruktori”)がファーストアルバムをリリースした。タイトルは『ポジティブ・ジオグラフィー』(”Pozitivna geografija”) [9]でベルリンに始まりロシアの大都市の数々、アジアから南北アメリカといった世界各地の歌を聞くことができる。

そのうちの1曲が『テキーラ、ゲリラ』(”Tekila, gerila”)で、ラテンアメリカの架空のキャラクターのことがセルビア語で歌われる。 [10]ファンという名の若者がテキーラの酔いに任せて、判で押したように邪悪な将軍の手中から、誘拐された恋人を救い出すために革命を起こすという物語だ。ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説『100年の孤独』に登場する架空の町マコンド [11]を舞台にし、歴史的な信憑性とは無関係だ。

Ni Markes ni Kastaneda
Nisu znali Juanita
Ali su čuli da mu je deda
Susreo lično Meskalita

マルケス [12]カスタネダ [13]
ファニートのことは知らないが
2人の耳に入ったのはファニートのおじいさんが
メスカリートに直々会ったという話

メスカリートというのは幻覚剤メスカリンを含むペヨーテサボテン [14]の名で知られるが、この場合はメスカレロ・アパッチ [15]の架空の酋長のことをそれとなくさしている。

このアルバムは大ヒットし、若いバンドリーダー、モマグロ・バヤビッチ [16]の評判は盤石のものになった。モマグロはバヤガとも呼ばれ作詞と演奏を担当している。

その後1987年には、クロアチアのバンド、デュオ・ペグラ(「ペグラ」はクロアチア語で「洋服アイロン」という意味)が『厄介なことばかり』(”Mi imamos lots of problemos”)を録音したが、これもまた大袈裟なメキシコアクセントで歌われた。

この歌は大ヒットした。この曲の入ったカセットテーブはデュオ・ペグラの唯一のアルバムで、この国で40万本以上を売り上げた。 [17]当時、人口が2,200万人だった時代のことである。

この歌でツアイト・ガイスト(時代精神)にマトを絞っただけでなく(つまりこの歌のリリース後数年でユーゴスラビアは崩壊した)、デュオ・ペグラはメキシコの血に繋がる2家族の名前も歌い込んでいる。ママ・ファニータとスピーディ・ゴンザレスがそうだ。

Mi imamos mnogos problemos
i lutamo svijetos bez kintos
nosimo brkoves i ocales
a svi nas zovu Speedy Gonzales

Aj, mama Huanita
Gonzales po svijetu skita

俺たちには厄介なことばかり
一文無しでこの世をさまよう
口髭をはやしメガネをかけて
みんなにスピーディ・ゴンザレスと呼ばれ

ああ、ママ・ファニータ
この世をさまようゴンザレスさ

多くの読者もご存知のように、スピーディ・ゴンザレス [18]はワーナー・ブラザースのルーニーチューンズシリーズに出てくるメキシコのネズミのことだ。このアニメはかつてこの国で圧倒的な人気を誇り、今でもほとんど毎日のペースで国営放送で再放送されている。

ママ・ファニータは1950年のメキシコ映画『人生の1日』 [19]”Un dia de vida” [20])の登場人物で、マケドニア・シネマテック発行のある2018年現代メキシコ映画評論 [21]によると、この作品からユーメックス音楽 [22]ブームが生まれたようだ。

The film “Mama Juanita,” as the film “Un Dia de Vida,” was entitled by the Yugoslav distributers, after the eponymous song from the film that entranced the domestic audiences with its pathos, started a wave, or more correctly, a tsunami of singers and bands that made music following the Mexican model, to accompany lyrics written in one of the languages of former Yugoslavia.

映画『ママ・ファニータ』は『人生の1日』同様にユーゴスラビアの配給会社が題名をつけた。それ以前に映画の主人公の名を歌い込んだ歌のペーソスが、国内のファンを魅了してブームを巻き起こしていた。このメキシコサウンドを真似て、歌手やバンドが津波のように押し寄せてきたと言う方がより正確だろう。おまけに歌われる歌詞は、かつてのユーゴスラビアの多様な言語のいずれかで書かれていたのだ。

校正:Masato Kaneko [23]