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マラドーナの死を悼むカリブの熱狂的サッカーファン

カテゴリー: カリブ, ジャマイカ, トリニダード・トバゴ, スポーツ, 市民メディア
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アルゼンチンのブエノスアイレスにある壁に描かれたディエゴ・マラドーナのグラフィティ・アート。撮影はフリッカーユーザー、ワーグナー・フントウラCC BY 2.0 [2].

アルゼンチン人でサッカー界のレジェンドであるディエゴ・マラドーナが11月25日、ブエノスアイレスの自宅で心不全により死去した [3]。60歳。マラドーナはそのすばらしい天賦の才能により1986年のFIFAワールドカップ [4]でアルゼンチンを優勝に導いたことで有名である。優勝への道をつないだ「神の手」ゴールは不名誉なエピソードとなっている。直前に、脳血腫の除去手術を受けたばかりだった。

小柄ながらピッチ上では巨人であり、最高の健康状態で活躍することを求められていたマラドーナが、健康上の問題を抱えていたことはとても想像し難い。しかしながら、キャリアを通じて薬物やアルコールの依存症 [5]に苦んだマラドーナは、極端な肥満 [6]や、肝炎のような深刻な健康不安などのさまざまな問題を抱えることになった。

1991年、マラドーナ氏は試合前の薬物検査でコカインの陽性反応を示し、出場停止処分 [7]により15か月間、大好きなサッカーができなくなった。そして同年、薬物所持で逮捕され、14か月の執行猶予付き判決 [8]を言い渡された。

1994年のワールドカップでは、アルゼンチン代表チームのスタープレーヤーだったマラドーナは再び代表チームの一員に復帰した。しかし、薬物検査にて禁止薬物が検出され、グループステージが終了する前に、アルゼンチンサッカー協会 [9]はマラドーナを代表から外した。FIFAはこの事件によりマラドーナを出場停止処分とし、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)、バルセロナ(スペイン)、ナポリ(イタリア)などのトップクラブを代表したマラドーナは世界の表舞台からは姿を消した。

しかし、マラドーナのピッチでの活躍は永遠に記憶されるだろう。

マラドーナの気迫に満ちたドリブル突破のプレースタイルは大胆であり、はたからは簡単そうに見えた。だれよりもスピードがあり、足元の技術があった。ディフェンダー数人に囲まれた状況 [10]でも完璧なボールコントロールを見せた。直観的にスペースを探しだしてチャンスを創り出すことができ、チャンスを独り占めにすることもなかった。

マラドーナは何よりもチームプレーを重んじ、必要なところでパスを配給した。彼が創造性あふれるプレーでけん引することにより、アルゼンチンのサッカーは、絶頂期にはライバルであるブラジルの魅力的なサンバスタイル [11]の派手な足技に負けないような、見ていて楽しいものになった。マラドーナの影響のもと、ラ・アルビセレステ [12]という愛称で呼ばれるアルゼンチン代表選手たちが見せる創造的な動きは、優雅でかつ正確、まさにピッチの上の巧みなタンゴのように感じられた。

アルゼンチンは3日間、国家的に喪に服すことを宣言 [13]した。ブエノスアイレスにある大統領官邸、カサ・ロサダで行う国葬には百万人規模 [14]の弔問が見込まれた(原文記事掲載時点)。

一方で、サッカーに熱狂的なカリブ海 [15]地域をはじめ、世界中がマラドーナを失った悲しみに包まれた。

自身もスーパースターであるジャマイカ人スプリンターのウサイン・ボルトは「RIP to Legend #Maradona(伝説的英雄マラドーナ [16]にご冥福をお祈りいたします)??」というキャプションを付けてフェイスブックにマラドーナとのツーショットを投稿 [17](訳注:2021年2月22日現在、リンク先は閲覧できない状態になっている)した。

マラドーナは欠点のある、複雑な英雄であることには間違いなかった。1986年のメキシコワールドカップの準々決勝はいかにマラドーナが同時に罪人と聖人になり得たか、後世に残るよい例となった。この時、マラドーナ率いるアルゼンチンチームはイングランドと対戦した [18]が、当時、フォークランド紛争をめぐって両国間の緊張がまだ高い時だった。

その試合の最初のゴールは51分に必死にハンドで押し込んだもので、抗議にも関わらず主審はそのゴールを認めた。わずか4分後、マラドーナはほとんどのサッカー専門家が「世紀のゴール」と認める、目もくらむような不可能とも思えるドリブルによって5人のイングランドの選手を抜き去り、キーパーもすり抜け、再びゴールを奪った。

試合後、記者たちが最初のゴールについての質問を浴びせると、マラドーナは臆面もなく「神の手」が少し助けてくれたと答えた [19]。この「神の手」発言は、その後サッカー史で永遠に語り継がれている。

アルゼンチンは2-1で勝利し、決勝では西ドイツを破って優勝カップを手に入れた。また、マラドーナはこの大会の最優秀選手 [20]に選ばれた。たびたび起こしたピッチ外の問題行動にも関わらず、マラドーナは多くのファンにとって永遠に最高の選手 [21]あり続ける [22]

1986年の準々決勝でマラドーナを止められなかったイングランドのディフェンダーの1人、テリー・フェンウィック [23]も同じ思いである。テリー・フェンウィックは現在、トリニダード・トバゴの代表チーム監督で、マラドーナの訃報をうけて次のように語った [24]

Today is an extremely sad day for world football. I would like to extend condolences to Diego’s family, his friends and all of his former teammates, especially all the guys who were on the field that day in ’86.

I can recall it like yesterday. It is one of the matches and moments that never leaves you. For me, he was undoubtedly the greatest to ever play the game and certainly the best I have ever encountered.

As much as we were steaming mad about the [first] goal that was allowed and the fact that we lost and had to pack our bags after that game, we were all in awe of what he was capable of—what he did generally in that game and the tournament as a whole. It was just pure genius.

Indeed a privilege to share the same pitch and come up against such a unique figure. RIP Diego.

今日は世界のサッカー界にとって非常に悲しい日になりました。 ディエゴの家族と友人、そしてかつてのチームメート、特に1986年のあの日、グラウンドにいたすべての人々に哀悼の意を表したいと思います。

私は昨日のように思い出すことができます。あの試合、あの時はディエゴ抜きでは語れません。私にとって、ディエゴが偉大な選手だったのは間違いなく、もちろん私がいままで出会った中で最高の選手でした。

我々は、1回目のゴールが反則とならなかったこと、そしてその試合で敗退したことで怒りに駆られていました。でもその怒りと同じくらい、だれもがディエゴの能力とその試合や大会全体で成し遂げたことに対して畏敬の念を抱いていました。まさに天才でした。

君のような唯一無二の選手と同じピッチ上で、プレーできたことは本当に名誉なことでした。ディエゴよ、安らかな眠りにつきますように。

2000年にFIFAは1回限りの賞「20世紀最優秀選手賞 [25]」を創設し、マラドーナはブラジルのペレ [26]とともに共同受賞した。

同年、イタリアのクラブ、ナポリは彼の業績をたたえて背番号 [27]10を永久欠番とした。マラドーナは1984年から1991年までこのクラブでプレーし、この時期がクラブの歴史の中で黄金時代 [28]となったからだ。この時期にナポリは、コッパ・イタリアのセリエAで2回優勝し、南イタリアのクラブとして初めてイタリアサッカーの最高賞「スクデット」を獲得した。

2001年、アルゼンチンサッカー協会はFIFAに対しても、アルゼンチン代表チームのマラドーナが使っていた背番号10番を永久欠番にすることを求めた。しかしFIFAはこれを承諾しな [29]かった [30]

校正:Shigeru Tani [31]