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レゲエのカリスマついに逝く 最後のオリジナル「ウェイラーズ」バニー・ウェイラーに捧ぐ

カテゴリー: カリブ, ジャマイカ, 市民メディア, 芸術・文化, 音楽
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レゲエのカリスマ、バニー・ウェイラーがダブデム・サウンド・システム(”the Dubdem Sound System”)の2009年のジャマイカツアーに加わり歌う姿 写真提供 [1]:Dubdem e FabDub, Flickrによる [2] CC BY 2.0 [3] .

バニー・ウェイラーの名や「ジャー・B」の愛称でよく知られるネヴィル・オライリー・リヴィングストン。彼は3月2日、午前8時(グリニッジ標準時間5時間前)少し前に、ジャマイカ、キングストンのメディカル・アソシエイツ病院で73年の生涯を閉じた [4]

レゲエバンド、ザ・ウェイラーズ [5]の創設メンバーの1人として(あとの2人はボブ・マーリー [6]ピーター・トッシュ [7])知られ、その名は1960年代の終わりにジャマイカで生まれ [8]、即座に世界中の隅々まで広がった先駆的な音楽ジャンルのまさに代名詞だった。

近年、ウェイラーの健康状態は芳しくなかった。グラミー賞に3度 [9]輝いたが2018年に軽い卒中を患い、2020年7月の2回目の発作以来病に伏していた。シスター・ジーンの愛称で知られる長年連れ添った妻のジーン・ワットが、同年5月23日に行方不明になったと報じられ [10]間もなかった [11]。ジーンはいまだに消息不明だ [12]

ウェイラーの逝去のニュースは、ジャマイカ人にも世界中のウェイラーズファンにも大きなショックだった。レゲエを代表する人物のひとり、U・ロイが79歳で亡くなった [13]という知らせを聞いてたった2週間後のことだから尚更だ。

ジャマイカのアンドリュー・ホルネス首相は次のようにツイートした。

(1/5)バニー・ウェイラーとして、またジャー・Bの愛称で親しまれた伝説的レゲエアーティスト、ネヴィル・リヴィングストンのご家族と友人たち、そしてファンの皆さんに深く哀悼を捧げます。

ウェイラー家の要望を受けて、オリビア「バブシー」グランジ文化大臣も声明を発表した [16]

We mourn the passing of this outstanding singer, songwriter and percussionist and celebrate his life and many accomplishments…

We remember with great pride how Bunny, Bob Marley and Peter Tosh took Reggae music to the four corners of the earth.

Today, the last surviving Wailer has passed.

His son Abijah said to me this morning that “Bunny Wailer cannot die, he has transitioned.”

この優れた歌手であり、ソングライター、そしてパーカッション奏者の逝去を悼み、その人生と業績を讃えます。(以下略)

バニーさん、ボブ・マーリーさん、そしてピーター・トッシュさんたちがレゲエ音楽を世界の隅々まで広めたことを、私たちは大きな誇りと共に記憶に留めます。

今日、ウェイラーズの最後のメンバーが旅立ちました。

彼の息子のアビヤムは今朝、私にこう言いました。「バニー・ウェイラーが死ぬはずがない。どこかで生まれ変わっているよ」と。

歌手のナディーン・サザーランドは、ウェイラーズの3人の若い頃の写真をシェアし、レゲエのヒーローたちがようやく再会すると思ってなんとか自分の気持ちを慰めた。

この写真を見てみぞおちにグッときたわ。なんてこと!マジで大声で叫んじゃった。

ボブ・マーリーは1981年に癌で亡くなり [19]、ピーター・トッシュは1987年に自宅で殺害された [20]

カリスマの子供時代

リヴィングストンは1947年4月20日にキングストンで生まれた。7歳からはジャマイカ郊外セイント・アン教区のナイン・マイル [21]で父親と暮らした。マーリーと共にステップニー初中級学校に通い友人になった。実際、2人は元々義理の兄弟だった。というのは、マーリーの母親セデラ・ブッカーはバニーの父親タデウスと内縁関係にあったからだ。

2人はキングストンのトレンチタウンに移りピーター・トッシュと出会い、バンドを組み最初はザ・ウェイリング・ウェイラーズと名乗った。レゲエミュージッシャンのジョー・ヒッグス [22]が近所に住んでいて、3人を自分の傘下に置いた。その後、シンガーのジュニア・ブレイスウェイトとバックアップシンガーのビバリー・ケルソとチェリー・グリーンを加え、ザ・ウェイラーズの誕生となった。

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オリジナルウェイラーズの練習風景 写真 [23]vinylmeister [24] Flickrによる, CC BY-NC 2.0 [25].

1963年12月、バンドは有名なスタジオ・ワン [26]で『シマー・ダウン』(”Simmer Down” [27])というスカ曲をレコーディングした。この曲はナンバー・ワン・ヒットになった。2枚のアルバムと無数のシングル盤をレコーディグした後、バンドはクリス・ブラックウェルのアイランド・レコード [28]からアルバム『キャッチ・ア・ファイアー』(”Catch a Fire” [29])で世界的にブレイクした。

オリジナルメンバーの3人をフィーチャーした最後のアルバムが1973年の『バーニン」(”Burnin’” [30])で、名曲『ゲット・アップ・スタンド・アップ』(”Get Up Stand Up [31]“)を含んでいる。しかし彼は亡くなるまで、ウェイラーズに関係する全てに強い発言権を持ち続けた。例えば、ボブ・マーリーが「虐げられた者の預言者」になるまでの旅程を物語る [32]2012年の決定的ドキュメンタリー『マーリー』(”Marley” [33])がそうだ。

自ら切り開いたその人生

彼はツアーに明け暮れる生活に浸りきれない敬虔なラスタファリアン [34]だった。1973年にバンドを脱退し最初のソロアルバム『ブラックハート・マン』(”Blackheart Man” [35])の制作にとりかかった。この作品はルーツ・レゲエの傑作として高い評価を得た。

1990年代に彼はボブ・マーリーのレガシーを讃えるアルバムで3つのグラミー賞 [9]を獲得した。1991年の『タイム・ウィル・テル ”ボブ・マーリーに捧げる”』(“Time Will Tell: A Tribute to Bob Marley”)、1995年の『決定版!ルーツ・レゲエ・クラシック』(“Crucial! Roots Classics” )、そして1997年の『栄誉の殿堂 “ボブ・マーリー生誕50年記念”』(“Hall of Fame: A Tribute to BM’s 50th Anniversary” )の3枚である。これらのアルバムにはダミアン [36]ステファン [37]ジギー [38]らマーリーの3人の息子たちとの共演も含まれている。

ジャマイカの至宝

2017年にはジャマイカのメリット勲章 [39]を授与された。これは芸術や文学や科学の分野で業績を収めたジャマイカ人(ジャマイカ人以外の場合もある)に贈られる国内賞である。

その人生の真髄をとらえた短編ドキュメント [40]の中で、彼は信仰とジャマイカの音楽と文化に生涯を捧げた最愛のラスタ長老かつ語り部として描かれている。

高い評価を受けた西インド諸島のクリケットのドキュメンタリー『ファイアー・イン・バビロン』(”Fire in Babylon” [41])についてのインタビュー映像 [42]を見ればわかるが、晩年には生来のカリスマ性とはつらつさは表舞台では見られなくなり、ライブ演奏もほとんどしなくなった。2006年のワシントン・ポストの記事 [43]はこう指摘している。「結果として彼は商業的なスターというより常に崇拝の対象だった。そのうえレゲエの世界で最も謎に包まれた人物だった」

ウェイラーの逝去でジャマイカ音楽の歴史の1章が終わったと、ジャマイカ人は感じていると言ってもいいだろう。感動的な共作曲『ドリームランド』(”Dreamland” [44])でウェイラーは切々と次のように歌っている。

Oh, what a time that will be,
Oh, just to wait, wait, wait and see!
We'll count the stars up in the sky
And surely we'll never die.
And surely we'll never die

ああ、いつのことになるんだろう
待って、待って、待ってさえいればわかる!
空高く輝く星を数えてみよう
俺たちは絶対に死んだりしない
俺たち絶対に死んだりはしない

校正:Sari Uchida [45]