ウクライナ戦争で言葉を見失いかける話

「ママにふれるな。沈められるぞ」。ママとはオデーサ・ママの略称で、オデーサの町や、人々のことをさしている。沈められると言うのはロシア軍最大の軍艦が、2022年4月14日にウクライナ軍の攻撃で沈没したことをさす。2022年10月にオデーサで著者が撮影。使用了承済み。

私の人生最初の10年の間、我が多民族家族はソ連邦、チェコスロバキア、フランスと漂い続けていた。移動のたびに覚えていった言語は、今日までの私を形成している。その一つがロシア語だ。私は言葉といっしょに、その言葉を使う世界の文化も身につけていったが、その中で私が一番好きなのは寛容さや、おおらかさだ。

1970年代のタシケントでは、寛容が指すДружба народов(ドルジバナローダフ)[英]つまり民族友好は特別な意味がある、とても政治的な言葉だった。この言葉は学校の教科書、街角のポスター、テレビのニュース、公的な行事で無限に繰り返されていた。しかし大げさな言葉やスローガンとは裏腹に、現実のソ連邦では民族的なちょっとした中傷は毎日のことであり、バザールや混雑したバス、牛乳の配給や国境の検問所にできる長い行列では中傷の言葉が行き交っていた。

オデーサの通りで見かけたこの小さな標識は、イディッシュ語作家ショーレム・アレイヘムが、ここに住んでいたことを道ゆく人に伝えている。2018年に著者が撮影。使用了承済み。

でも一方で、異民族間の婚姻など日常的にどこにでもあった。私たちが1979年に引っ越してきたオデーサでは、友人や隣人はカライム[英]のドイツ人、アルメニア系のロシア人、ユダヤ系のウクライナ人やモルドバ系ギリシャ人とみんな混血だった。当時はテレビで放映された映画は種類も少なく、みんなで第二次世界大戦の映画を毎日のように見ていたが、そこではナチスのソ連侵攻に対して自分たちの両親も戦ったのだと誰もが思っていた。つまり、われわれはドルジバナローダフ(民族友好)で結ばれていたのだ。

2022年2月24日に「モスクワがキーウを爆撃している」というニュースが世界を駆け巡った時、私は自分の頭がおかしくなったのかと疑った。何かが崩れる映像や、おばあちゃんや飼い猫を連れて、人々が地下鉄の駅に避難する映像を見ても、これらが本当のこととは、にわかには信じられなかった。ニュースの見出しの文字列は意味をなしていないように感じ、もしかして自分は言語中枢が潰れかかっているのではないかと疑った。ウクライナでは多くの女性や子供、男性、民間人、軍人が殺され、負傷し、孤児になり、誘拐され、レイプされ、拷問を受ける状況が発生し、今日なお続いているのに、私は目にする文章が伝える内容がただ信じられなかった。

戦争が始まって最初の 3 か月間、私はニュースに釘付けになり、毎日8時間映像を見続け、ほとんど眠れなかった。本好きで、本中毒と呼ばれる私が本を読まなくなった。頁を開いて文字を追っても何も頭に入らない。気持ちだけは焦っていて、報道内容を理解し、何らかの解釈を得ようとしていたのだ。

そしてある日、私は答えに窮する自問に行き着いた。大量虐殺を行われている状況下、私の脳の中の日々ロシア語を話している部分をどうすべきなのだろう?

1970年代のソ連邦では、抑圧された大衆と連帯することは、寛容を示すもう 1つの方法であった。私たちは学校でそのことを学び、メーデーのデモ行進で連呼し、自由を求めて闘うキューバ、ベトナム人民との友愛を称賛する映画を見るのだった。世界革命を担う偉大なるソ連邦の英雄はいつも必ずロシア人であって、決してウズベク人でもブリヤート人でもチェチェン人でもないことに、子供の私はまだ気づいてなかった。帝政ロシア期に繰り返されていた「未開社会からの脱出」という言葉が、ソビエトに変わってからも民族友好の名の下に焼き直しでプロパガンダとして繰り返されているとはつゆほども知らなかった。当然、誰もが共通に使えるロシア語を話すことは、多くの少数民族が入り混じった場では、平和と相互理解を育む最善の方法ではなかったのか?

時代を2014年に早送りすると、プーチンが東ウクライナに侵入し、クリミアを占領するために組み立てた見せかけの論拠は、ウクライナで脅かされ、冷遇されているロシア語話者を、ロシア語の名誉にかけて保護するという考えだった。

靴下に書いてある「Любовь-морковь(愛しのにんじん)[露]」はロシア語の慣用句で、愛は訪れても、少しづつあせていくという意味だ。この靴下を作っているのはオデーサの衣料品メーカーで、ウクライナ語やロシア語のゆかいな言葉を使ったデザインが特長だ。2022年10月に著者が撮影。使用了承済み。

ロシア語話者であることは私にとって常に喜びあった。そう、ロシア語の詩、そして何よりもロシア語には、しんらつな冗談とばかばかしい笑いがある。その言葉は帝政ロシアや反セム主義やスターリン独裁、そして少し前まではプーチンへの抵抗や批判で鍛えられ、洗練されてきたのだ。より正確に言うとプーチンがロシアのテレビ局を接収してしまうまではそうであった。私はタシケント、オデーサ、モスクワの子供時代にはロシア語で話し、ビシュケクアルマトイバクーでの記者兼研究者時代もロシア語を使っていた。いまもプラハやベルリン滞在中は毎日、友人と話すときはロシア語だ。私の話すロシア語は、ウズベク語やキルギス語の単語が混じっていて、自分はロシア人などではなく、少数民族出身だと考える人々が使うロシア語だ。

日々続く戦争、そして恐ろしい話が明らかになるたびに、ウクライナ語とロシア語の両方話せるウクライナの人々の間で、ロシア語の方を捨てて話さない人が増えている。作家はウクライナ語だけで書くようになった。もちろんウクライナでは驚くほどのことではないだろう。ロシア文学やロシアの文化、催事でもロシア色を消し去る動きがあると聞いているが、このことは異なった考えや文化との共存に対する大きな問いだと私は思う。

はっきり言うならば、ウクライナ文化はもっと強調され、広く教えられ、紹介され、文学作品は他の言語へ翻訳されるべきではないか?もちろんだ。ウクライナ文化の消去を阻止するために、世界的に名の通った美術館は展示品の表示を変更し、展示している絵画の題名を変更してゆくべきだろうか?どこも全部、全言語でそうすべきだ。その理由は帝政ロシア時代、ソ連邦時代、そしてロシアの反ウクライナのデマが溢れる現在に至るまで、ウクライナ文化がほぼ無視されてきたから、でもそれだけではない。ウクライナ文化には美しさや、包容力の深さ、人を惹きつける力、豊かな才能があるからだ。 

ところで私の曽祖父母には生粋のオック語の話者が何人もいた。フランスの中央集権的な政府は、オック語話者の誇りをおとしめる扱いをしてきたため、20世紀初頭には南仏の住人の9割はオック語を話せたのに、それから二世代をへた今日ではオック語を話せる人の割合は9%以下に減ってしまった。オック語世界の著名な文化人であっても、フランスの学校や大学教育では評価されていないか、無視されるかのいずれかだ。私の人生で12年間も付き合わされてきた教育課程は、このようにして植民地支配に加担し、その達成に貢献してきたのである。 

学校の教科書がどれほどまでに私の出自と尊厳を否定し、私自身が少しずつ尊厳を失っていったことに気づくまで数十年がかかってしまった。いま私はオック語を学び、オック語の歴史と文学の本も読んでいる。でもフランス語の文学を読むのを止めるだろうか?いや、そんなことはない。オック語は過去実際に禁じられ、今も一面では昔の悪影響が残っている。でもその腹いせに別の言語を禁じても何も良くはならない。

それよりも、私は影響力を誇示する文化的偶像の正体を明かしたい。大きな苦痛を伴う作業かもしれないが、私はそれを良しとする。
啓蒙的な文を書いて高く評価されている作家に立ち向かいたい。まず作家たちも植民地主義的な態度への賛同者であり、そのような議論へも積極的に加担していたことを再確認するのだ。 

ロシアの詩人プーシキン[英]、レールモントフ[英]、ブロツキー[英]は、帝国主義のロシアを称賛し、ウクライナ人、チェチェン人を見下して差別する文書を書き連ねなかったか?その通りだ。この事実を広く知らしめ、調査し、解き明かさねばならない。なぜならば詩人たちの言葉を、ウクライナに対する、また他の地域に対する文化的武器として、モスクワは昔から使ってきたし、それは今も変わらないからだ。

日々ロシアのウクライナ侵攻でのおぞましいニュース映像を目にし、クレムリンから発せられる、聞けたものではない5分間スピーチを嫌悪し、ロシア語話者は自分の中で対立する感情、帰属意識、道義的疑問に折り合いをつけることができず、今は喜びからも、安らぎからも遠い場所にいる。 

左側はウクライナ語で「ウクライナに栄光あれ」、右側はベラルーシ語で「ベラルーシ万歳」。2022年10月にオデーサで著者が撮影。使用了承済み。

私がロシア語や他の本を再び読めるようになったのは、アンドレイ・クルコフのおかげだ。彼はセント・ペテルブルク近郊で生まれ、のちにキーウで日本語を学んでから、オデーサでソ連邦陸軍に服役し、現在はキーウに住んでいる。彼は癖が強く皮肉が一杯の小説をロシア語で書くが、著述に登場する多くのことの中には2012年の戦争も2022年の戦争もある。私の耳に残っているのは、彼が2022年5月に述べた言葉だ。
「ロシア語はウクライナの持ち物でもあるんだ。プーチンがロシア語の著作権を持ってるわけじゃないからね[露]」。

帝国が崩れる時には、外周部の国は帝国のくびきを脱して自ら自由を獲得するが、最終的には帝国本体も解放に至るのだ。

(訳者より:作者のフィリップ・ヌーベルは2015年にグローバルボイスに参加。翻訳者、記者として活躍し現在はフランス語圏のサブエディターを務める。言葉と記憶と文化が交差する領域で、有力な記者を発掘し、自らも記事を書いている。現在は台北在住。)

校正:Moegi Tanaka

 

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