現在は武力放棄をうたう憲法をもち、70年の間戦争していない日本だが、平和主義政策の土台には先の戦争への苦い反省がある。第二次世界大戦に日本は積極的に関与し、中国から東南アジアに侵攻の手を広げ、米英連合軍と戦った。開戦時、アジアの小国が世界に挑むことを、当時の日本人は熱狂的に支持し、和平を探る声は圧殺された。反戦論を唱える者は治安維持法により逮捕・拷問を受け、「非国民」と排斥された。天皇のために死ぬことが至高のこととされ、敗戦色が濃くなっても、「一億玉砕(国民全滅を美化した表現)」のスローガンのもと破滅に突き進んだ。やがて主要な都市が空襲を受けて焼け野原になり、広島・長崎に原爆が落とされるに至り、1945年8月15日、ラジオ放送にて昭和天皇が国民に終戦を伝えた。
人々は政府やメディアに踊らされるまま戦争を賛美していたことを恥じ、戦争はもうこりごり、子孫にも二度と味あわせまいと決心した。日本は戦後7年間米軍の統治下にあり、その間に新しい憲法が制定された。戦争放棄・戦力の不所持をうたったこの憲法を、人々は、世界に先駆けて平和国家を作るのだという誇りと喜びを持って受け入れた。
70年を経て、平和のありがたみを肌で感じてきた世代の人たちは少数派になった。総務省によると、戦後生まれの日本人は8割を超えているとのことだ。出征した世代はおろか、戦火に怯えた子ども時代の記憶を持つ世代も年々その割合を減らし、戦争の記憶が風化するのではないかと危機感を募らせる人は多い。日本は8月15日を終戦記念日と定めており、政府主導で全国戦没者追悼式が毎年行われる。また、この日が迫るとTVや新聞は戦争を振り返る特集を組む。この夏は、安倍政権が推し進めた安保法案への不安の声が高まり、特に多くの特集が扱われた。当時を覚えている世代は、自分たちが語らねばと、戦争体験を公表している。私の母、ハンドルネーム「まっちゃこ」もその一人だ。
終戦記念日の前日、彼女は短いツイートを投稿した。
昭和20年8月15日、あの日も暑かった!
— まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 14
これに、日頃の旅行の写真より多いRTがついた。まっちゃこには、趣味のお笑い観賞や旅行で知り合った若い友人が多く、ツイッターは彼らとの交流に利用している。彼女は戦争当時の体験を、友人たちに語ってみようと思った。
70年前の8月15日、私は小学校5年でした。近所の子達と輪になってカゴメカゴメをしていました。 あの瞬間から世の中がコロッと変わりました。 4年前の12月8日(小1)日本が戦争を始めました。教室で担任の藤田先生が厳かに話されました。以前から戦争してたから大した衝撃はなかった。 — まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
1930年代、日本は謀略を用いて中国に攻め込み、戦線を拡大していた。国民に好戦気分が盛り上がり、1940年の日独伊軍事同盟締結の際は、幼い子供まで旗行列で祝った。
幼稚園の時 “日本とドイツとイタリアは、いつも仲良し~~”という歌を歌わされた。卒園してから幼稚園へ遊びに行って(行列用の)三国の国旗作りを手伝う。日の丸はダントツに作り易かった。当時はまだ日本は参戦してなかった。三国とも戦争に負ける。ヒトラーの時代のドイツ!今ゾッとしてます。
— まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
まっちゃこは兵庫県神戸市に生まれ育ち、神戸大空襲を体験している。第二次大戦末期、連合軍が日本の市街地に向け盛んに空爆を行なったうちのひとつで、ジブリ映画『火垂るの墓』でも描かれている。
まっちゃこの両親は神戸市東灘区で代々続く和菓子屋を営んでおり、彼女の下に弟妹がいる5人家族であった。父は持病のため出征を免れたが、食糧が配給制になると商売は苦しくなった。小学4年生(1944年)の終り頃から、たびたび敵機襲来の警戒警報のサイレンが鳴り、下校させられるようになった。
翌年、彼女が11歳になって間もなく、父は富豪の留守邸の管理を頼まれ、一家で住み込んだ。大空襲があったのは、その一週間後の早朝だった。
昭和20年(小5)6月5日朝、空襲警報で家族が防空壕へ。わあ!家が焼けてるぅ!「お母さん達は消火するから、あんた達3人で上人山へ逃げなさい」って言われても! 4歳の妹を背負えど1歩も進めず。1年生の弟と妹の手を引いて山へと向うが、一面火の海!小さい火の玉が半円形にピョンピョン。
— まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
上人山は2~3kmほど山の手にあるお寺だが、機銃掃射に追われ、そこに行きつくことはできなかった。
上人山への道は天下の豪邸通り。遠くでドーンドーンと時限爆弾。溝を見つけて入り、弟妹に耳に親指、目に4本の指で覆わせ、伏せをさせる。なんと従順な弟妹たち。目を上げると30m.先のお墓へ逃げる人達。真似してお墓の防空壕に逃げ込む。その左側で財閥野村邸(洋館)が壮大に燃えている。
— まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
防空壕は広くて奥に仏像があった。20人位が逃げこんできていた。私より年下の女の子が赤ん坊抱いていた。狂気なおばさんが「ナマンダブナマンダブ」と絶叫していた。突然我に返ったおばさんが「あんた年上やのに、なんで赤ん坊抱かへんねん!」と叫ぶ。「うちの子と違います」と小さい声で返す。 — まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
空襲が収まってから、探しに来た母と落ち合うことができた。
空襲が収まったらしく外へ出ると、お堂でお寺の人が皆に天ぷらを一つずつ振舞ってくれた。私は蓮根の天ぷらだったが、思わず年下の女の子に上げてします。その頃から“エエカッコシー”の悪しき習性がww 上人山へ逃げたと思い込んだ母が北の方から泣きながらやって来た。黒い雨浴びて顔マックロ。
— まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
留守を任されていた豪邸も、和菓子屋だった一家の元の家も全焼だった。
敵機も去ってペッシャンコになった家に帰れば まだブスブス小さな火が。父が焼けてる家に戻って持出したのが、アルバム2冊と一斗缶のお米。かなり時間が経って、一斗缶の蓋を開けたらブオーッと勢いよく燃え出した。父が可哀想で可哀想で泣いた。イヤ、あれはご飯が食べられない自分に泣いた?
— まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
ツイートを読んだ友人たちから「涙が出た」との反応をもらったまっちゃこは、後日談として、さらにトラウマになった出来事もツイートしている。
――空襲の翌日、両親が隣人たちと安否を確認し合い、家族同然の知人が見つからないことに気づく。和菓子屋の職場に居候していた身寄りのない女性で、子供たちの世話をしてくれた人だった。
空襲の最中に防空壕から出て行った、と証言があり、ひょっとして?と、父が(同じく全焼した)職場の焼け跡を、この辺?と見当つけて鍬で掘ると、骨が出てきた。お腹の周りが焼け切れずに焦げ茶の塊になっていた。 5年生の私は生まれてはじめて、こんな形で死体をみたのです。(続く) — まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
大っぴらには口に出せない時代だったが、犠牲者は体制への不満を抱えていた。
親戚に頼まれ両親が彼女を預る事になるが彼女は天涯孤独だった。いつも1日2合3勺のお米の配給が少いと嘆いた。その内2合1勺になり嘆きは倍増。 彼女は弟妹の面倒をよく見てくれ、天皇陛下の乗馬姿が載った新聞をおまるの底に敷いて妹をおしっこさせながら「見つかったら不敬罪で引っ張られる」
— まっちゃこ (@dosuee6356) 2015, 8月 15
(2合3勺は330g、2合1勺は300g。小児用便器に不要な古新聞を敷くこと自体は珍しいことではないが、天皇の写真は当時神聖視されていた)
家を失った一家は親戚の部屋に数日身を寄せた。その後親戚でもない知人の実家を頼って島根県の山奥へ疎開し、そこで終戦を迎えた。閉鎖的な風土の慣れない土地で避難民として暮らす苦労はあったが、『火垂るの墓』の主人公と違って両親が無事だったため、餓死せずにすんだ。紙一重で切り抜け、まっちゃこはその後70年の平和な日本を謳歌することができた。
実は、私は母の空襲の話を、子供のころから飽きるほど聞かされている。「もし将来ボケてあんたらのことがわからんようになっても、空襲の話は何べんも繰り返すやろな。覚悟しとき」と彼女は言う。「時代の空気があのころに近付いている。戦争は絶対にあきません」