シリア:わたしのクリスマスは誰にも奪えない

(原文掲載日は2015年12月22日です)

シリアのクリスマス(写真:Charles RoffeyのFlickrより)CC BY-NC-SA 2.0

シリアのクリスマス(写真:Charles RoffeyのFlickrより)CC BY-NC-SA 2.0

この記事は、マルセル・シャホワロ特集の一部です。ブロガーで活動家のシャホワロは、現政権側と反体制派の武力衝突が続くシリアの現状をつづっています。

わたしの家族にとって、クリスマスは特別な意味を持っていた。クリスマスはきわめて神聖で家族的な儀式だ。子どものころ姉のリーラとわたしは、交代で一晩中サンタクロースが来るのを見張っていて、その「現場」を押さえようと待ち構えていた。サンタの正体は親だと気づいたのがいつだったか、はっきりとは覚えていないけれど、わたしたちが何年もサンタさん宛に書いていた手紙を全部、両親がしっかり隠していたのを見つけてしまったときがそれだったと思う。大きくなってサンタクロースはいないと知った後でも、母はツリーの下でのプレゼント交換を毎年行事として続けたがった。言うまでもなく、母が亡くなると、一つの儀式が終わった。

12月の初めになると母はわたしたち姉妹に聞いたものだ。何か必要なものはない? 欲しいものは何? そして、あなたたちも家族にプレゼントを持って来なさいよ、と念を押した。クリスマスの朝はプレゼントと手紙を交換して過ごした。わたしはその準備に何時間もかけていた。ヘアセット、メイク、新しい服。28の歳まで毎年新しい「クリスマス用コスチューム」を買っていた。クリスマスのわたしはとてもカラフルな格好だった。髪も奇抜にスタイリング。まぶたは片方ずつ別の色。ときには、思い切って肩に蝶のタトゥーを描いたこともあった。「だってクリスマスだもの!」それからミサに参列し、ミサのあとパーティが始まると、サンタが登場して風船や帽子をくれた。そしてみんなで「ジングルベル」に合わせて踊ったものだった。

父が亡くなって、我が家からたくさんのクリスマス行事が消えてしまった。例えばツリーを飾らなくなった。でも母は愛情のこもった行事や贈り物をやめなかった。そして毎年、自分のことはいいから友達とお祝いに行ってきなさい、と言った。今では、いつも母を一人置いていったことを後悔している。ティーンエイジャーだったわたしは、友達とクリスマスを祝いに出かけてしまっていた。

姉が結婚し、最初の子どもが生まれて、クリスマスは再び家族的なものとなり、母の笑顔も戻ってきた。ツリーの習慣も復活して、母は孫たちと飾り付けを楽しんだ。サンタ宛の手紙は数が増え、わたしたちはみんな、サンタが登場してプレゼントを配る新しいシナリオを作るために頭をひねった。

やがて革命が始まった。

最初のクリスマスはなんとか普通に過ごせた。おびえて、危ないことはやめてという母をなだめながら、わたしは迫り来る脅威から目をそむけ、今までと同じように家族でクリスマスを祝おうとした。

しかし次の年は、すべてに目をつぶることは不可能だった。わたしが自分の家で過ごした最後の日は新年のシーズンだった。わたしは治安部隊からすでに目をつけられていた。わたしが書いていたもののせいでもあるし、幾人かの人たちが治安部隊へ通報したせいでもある。彼らはクリスマスを一緒に過ごし、歌ったり踊ったりしてともに祝った人たちだった。

アレッポ西部にいたのはその日が最後となった。今日もそこはアサド政権の管理下にあり、帰ることはできない。あの年、わたしは国境を越えてトルコへ入り、解放区から再び街へ戻った。二国間を渡るために、身元を偽り、頭にスカーフを巻いて変装しなければならなかった。そして、越境者をねらう政府軍による狙撃を避けるため、越境ポイントは走り抜けなくてはいけなかった。あれは人生で最も危険な5分間だった。越境しても、この恐ろしい体験に見合うゴールにたどり着けたわけではない。ただ「新年の思い出」が残っただけだ。抵抗活動としてのクリスマス。わたしのクリスマスを奪わせはしない。

翌年、わたしはISISに目をつけられていることを知った。やつらが自由に歩き回り、活動家が誘拐され、イスラム教徒第一となっている地域に身を置くことは、キリスト教徒のわたしにとって危険きわまりないことだ。しかし危険であるにもかかわらず、わたしはどうしても自分の家にクリスマスツリーを置きたかった。紛争下では、ツリーを買うのも容易ではない。

わたしが安全に向こう側へ渡れたのは、いわゆる「クリスマスの奇跡」だったのだろう。そうして、わたしは友人たちと一緒にクリスマスと新年を祝った。みんな友情に厚くて、わたしと一緒にクリスマスを祝うというリスクを負ってくれた。そのあと、わたしはまたアレッポの解放区に戻った。これが自分の家やふるさとの町での最後の滞在となり、慣れ親しんだ形式の最後のクリスマスとなった。

その年、わたしの町では他にも奇跡が起こった。親友が新年のパーティで爆撃に合いながらも助かったのだ。わたしは今でもそのことを感謝している。わたしの人生の中で、一番すばらしい奇跡だ。

翌年、わたしはISISに目をつけられていることを知った。やつらが自由に歩き回り、活動家が誘拐され、イスラム教徒第一となっている地域に身を置くことは、キリスト教徒のわたしにとって危険きわまりないことだ。しかし危険であるにもかかわらず、わたしはどうしても自分の家にクリスマスツリーを置きたかった。紛争下では、ツリーを買うのも容易ではない。わたしはトルコまで買いに行かなくてはならなかった。かなり高価で、わたしの財布には厳しい値段だった。ツリーを分解して包み、身につけるものに隠して、アレッポまでずっとこっそり持って行った。飾りはティッシュペーパーの箱に隠した。衣服をチェックされないよう、密輸中のツリーが摘発されないよう、途中2時間は、検問所のたびに怪しいものではありませんという振りをした。

街の入り口にあるISISの検問所では、見張りの兵にたずねられた。「このスーツケースは誰のだ?」

わたしのだ。わたしがカバンを開けようとすると、運転手が言った。「こちらの女性のです」

見張りは中身を調べる気が失せて、わたしは無事アレッポに入ることができた。これも奇跡? さあどうかな。

わたしは友達を集めた。クリスマスツリーを飾るのは初めてだという人がほとんどだった。彼らにとって、この儀式には何の宗教的意味もないというのに、わたしのところへやって来て一緒に楽しんでくれた。

中でも一番の変わり者のジャワドは、明るくこう言った。「キリスト教のお祭り、マジで最高」そしてみんなで笑いあった。

自由シリア軍にいる友人のアリはプレゼントを一つ持って来てくれて、ツリーの下に置いてほしいと言った。わたしはそれを受け取り、ぎょっとした。とても小さな暗殺用ピストルだった。「たいしたもんじゃないよ。もしやつらが来たら(ISISのことだ)、生きたままつかまることのないように」とアリは言った。

恐ろしい考えだ。愛するがゆえに自決をすすめるなんて。彼はわたしが人を殺せないことを知っている。だから、自分の身を守れとは言いもしなかった。結局そのピストルは、ノートパソコンなど家の中にあったものと一緒に盗まれてしまい、一度も使うことはなかった。これもまた奇跡かな。

今でもあのツリーは、スカリ地区のある家で横たわっている。その家の持ち主はレンガで家をふさいで、行方をくらませた。

おそらく、これぞクリスマス。

死や孤独をはねのけて、愛する人々に囲まれ無邪気に過ごすこと。

サンタクロースがほんとうは両親だという事実を無視すること。

大みそかの夜を友達と過ごすために、狙撃される可能性なんか気にしないこと。

ISISの検問所を通って、クリスマスツリーを密輸すること。

達成不可能と思っても、新年の目標を決めること。

クリスマスイブにマリアとヨセフが締め出されたように、同郷の難民たちが鼻先で扉を閉められませんよう、と心から祈ること。

たまらなくつらい記憶に踏み込み、それを愛で染めるという、ミラクルな方法を見つけ出すこと。

おそらく、これぞクリスマス。「自由」を祈る手紙が書けるほど純粋であること。

校正:Moegi Tanaka

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