シリアの青年、自由への危険な旅路

強制退去先のシリア北部で撮影されたフィラスの写真。掲載許諾済。

(訳注:原文掲載は2018年9月14日です)

7月のある暑い夜のこと。シリアの青年が暗闇へと足を踏み入れた。かつて家と呼んだものから逃れるために。ずっと弟を抱きかかえながら、重い足取りで、谷を抜け、野を越え、山を登り、塀を進んだ。戦争の悲惨さの記録から、ハイエナの声が遠くに聞こえる薄暗い土地を渡る行程まで。ここに記したのはその青年、フィラス・アル・アブドラの話である。

フィラスはドゥーマの出身である。ここはシリア、グータ地方の町で、首都の北東に位置する。今や7年に及んだ戦争の間、この町は想像を絶する最悪の残虐行為の数々を目にしてきた。

反政府軍が2度軍事行動を起こし、アサド政権軍を掃討した。その後イラン、ヒズボラから支援を受けた政権側が反撃に転じ、東部グータを包囲した。2013年の出来事だ。

包囲された町の一つに、フィラスの地元のドゥーマがあった。シリアに関する国連調査委員会はこの包囲作戦を「野蛮で中世のよう」と表現した。その5年間の包囲で、禁止兵器の使用から兵糧攻めといったものまで、戦争犯罪、人道に対する犯罪が数えきれないほど行われた。

#グータ東部#ドゥーマの一般市民に対し、#アサド政権軍が行った100を超えるミサイルによる絨毯(じゅうたん)爆撃後、しばらくの様子。

2013年8月21日の化学攻撃は、同地域の一般市民に対する単発の事件のなかでは凄惨を極めた。この攻撃で使用された化学兵器は、ここ25年で最も残酷な結果を招いた。

国連の報告では、この攻撃において、最大60リットルの神経ガスであるサリンを搭載したロケットが撃ち込まれたという。アメリカ政府が初期に行った調査では、この件で少なくとも426人の子どもを含む、1,400以上の犠牲者が出たとのことだ。

同報告では、この攻撃の責任を追及するまでには至らなかった。しかし、個々の情報源の一部は、この攻撃がシリア政府によるものだと名指ししているものもある。ヒューマン・ライツ・ウォッチの兵器専門家のピーター・ブッカート氏によれば、国連報告で特定されたロケット装置は、シリア軍が所有する武器の一つとされているそうだ。

2018年の初めになると、東部グータへの耐えることのない攻撃は激しさを増していた。国境なき医師団(MSF)はこの状況を「大惨事だ。深刻で、過酷を極めている。大量な死傷者がいる」と語った。

MSFは支援する複数の機関から得た、軍の攻撃が始まってから2週間の医療データも公表した。2月18日から3月3日の情報で、平均して1日当たり71人が殺害されていた。

3月23日。地獄だ。#ドゥーマは燃えている。グータ東部市民を標的にした#アサドや#ロシアのテロだ。2018年におけるホロコーストだ、これは。

3月の末まで、ドゥーマは反政府側の最後の居留地だった。

その翌月、サリンを積んだたる爆弾が街中に落とされ、少なくとも70人が犠牲になった。治療した人たちの症状は、まさに神経ガスの暴露症状(訳注:ウイルスなどにさらされる、という意味)だった、と現地の医師らは報告している。

現地の活動家、治療部隊、さらに多くの国々が、この攻撃はシリア政府によるものだとした。シリア政府の主要同盟国であるロシアは、攻撃そのものの存在を否定し、証拠とされる映像はイギリスの諜報機関によって指示され、意図的に制作されたものだという。

丸々5年包囲されている間、フィラスと彼の仲間は、がれきまみれの通りを練り歩いて、多くの虐殺行為の実態を映像に収め、彼のソーシャルメディアのアカウント上で発信した。

卑劣な軍事行動の後、4月1日の撤退交渉(訳注:これを受け、反政府勢力が北部イドリブに移った)を口実にされ、フィラスを含む家族はシリア北部に追いやられた。グローバル・ボイスのインタビューで、自身が受けたことについて、彼はすべて率直に語った。

「北では非常に厳しい生活が待っていました。暴行事件や誘拐といった話がいつも耳に入ってきました。主な標的となったのが活動家の人たちでした。私にとっては全くの他人事ではなかったわけです」最終的に、一家はトルコに逃れることにした。彼は言った。「私たちは生き延びたかった。言うまでもありませんが、忘れたかった、というわけではないです。誰もこの革命を忘れることなどできなかった。そんなことになれば、死を恐れずに戦った皆さん、いまだに拘束されている方々といった、全ての人たちをがっかりさせることになります」

#グータ東部の市民が最近住んでいる墓場の様子だ。ここの家族たちは72時間以上ここに身を置いている。
ここの人たちは食料、飲料水が不足して困っている。彼らが住むシェルターでは、暖もとれないし、衛生状態も悪いために、ひどい健康被害を引き起こしている。
シェルターにいる人のほとんどが女性や子供たち。
グータ東部、新たな#ホロコーストの実態だ。
#グータを救おう

フィラスの一家は、密輸業者と組んで、トルコに渡った。危険にあふれた旅は7月21日の夜更け、デイル・サウワーンの林を抜けるところから始まった。ハイエナの大きな遠吠えが聞こえても、彼らの決心が鈍らなかった。密輸業者の合図を待ちながら、海岸から人がいなくなるまで、オリーブの木の下で足を休めることもあった。

夜が深まり、彼らは山の上に高くそびえる国境の塀にようやくたどり着いた。フィラスは両親ときょうだいと共に、ほんの15cm(約6インチ)の幅しかない塀の天井をまっすぐ歩いた。左側には足の置き場がない。狭い縁を進むにつれ、地面からは遠ざかっていく。下に目を向けると、フィラスは自分の下には深さ30メートルの谷があることに気づくのだ。

フィラスにはこの戦争が始まった年に生まれた、ムハンマドという弟がいる。その弟に出発前、フィラスはこう伝えた。「トルコでは幸せな生活が待っている。家に閉じこもらなくていい、平らな、きれいな道で遊べるんだ」1kmに延びる塀の縁を歩いている途中、ムハンマドが急に左方向に足を滑らせた。フィラスが宙に浮かぶ弟の手首をつかんで事なきを得た。

フィラスが担いだ20kgのバックパックの荷物には、空襲でひどく損壊してしまった、家の鍵も入っていた。

未明、一家はついに、塀の終わり、未建設の箇所までたどり着いた。塀の縁から降り、彼らはトルコの土地に最初の一歩を踏み出した。

困難を極める旅は続いた。それから3時間、彼らは山々の間、岩谷を歩き進んだ。ムハンマドを担いで川を飛び越えないといけないこともあった。母親もあまりに疲弊していたために、フィラスは交互に母と弟を担ぐ、ということを繰り返した。「とっても大変な道のりだった。おまけに真っ暗闇。月の灯りがあまりなかったんだ」彼は言った。

国境の塀を踏み越え、5km以上歩いたところで、トルコの町キリスに着いた。喉もカラカラになって、歩き疲れた彼らは密輸業者が手配したタクシーに連れられ、平屋で休息をとった。それからすぐに、別のタクシーがやって来て、フィラスの親戚が待つイスタンブールへと16時間かけ、一家を運んだ。7月22日10時30分、彼らはイスタンブールに到着した。

イスタンブールに着いた時の心境を我々から尋ねられ、彼はこう言った。「1週間くらい、とてもショッキングなことばかりだったし、(シリアを)離れ、人が普通の暮らしを送れる場所に今いるってことが信じられなかった。『現実の世界』、僕はこう呼ぶんだけど、その現実世界にやってきたんだなって。その世界にみんな住んでいるんだよ。けど僕らは同じ住民ではなかった。シリア政府の残忍な攻撃に耐えないといけない状況だったから。(政権によって)僕たちは、大きなこの『現実世界』のその内側で、ある種時代が逆行した野蛮な時代に住むように強いられていたんだ」

フィラスは、7年ぶりに街灯の明かりを見たときにこう感じたという。「ミサイルで破壊されていない道路、兵器の破片が散らばっていない歩道、戦いの傷跡のない壁、これらをここ何年も僕らは見ていなかった」

シリアで味わった恐怖は、新しい地においてもフィラスに付きまとった。

「戦闘機ではない商用飛行機やヘリが上を飛んでいるだけで、僕たちは自然と両肘の間に顔をうずめ、恐怖をやり過ごそうとする。僕なんかはすぐに戦闘機が上にいることを周りに告げたくなる。まるでまだグータにいるかのようだよ」フィラスはこう説明した。「狂気の沙汰かもしれない」彼は自嘲気味に笑い、「だけど僕らが味わった恐怖を忘れるには時間がかかるんだ」

フィラスはこう締めくくった。「もちろん、僕の家族はここでよりよい暮らしを送れている。それが僕にとっては何より大事なことだよ」

#自由よ永遠に……
我らの誇りを空高く掲げよう……
「アスタ・ラ・ヴィクトリア・シエンプレ」(訳注:チェ・ゲバラの革命標語。「永遠の勝利の日まで」の意)

校正:Aya Murata

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