11月4日、アメリカを拠点とするアカデミー賞(オスカーとも呼ばれる)は、同賞の国際長編映画賞にナイジェリアから初めて出品された「LIONHEART/ライオンハート」を失格とした。「LIONHEART/ライオンハート」は2018年に製作されたヒューマンドラマで、現在はNetflixで公開されている。オンライン・メディア・プラットフォームのthe Wrapが報じるところによると、同映画のが失格になった理由は、「大部分が英語である」ために「競う資格がない」からだという。
ナイジェリアでは500以上もの言語が話されているが、かつてイギリスの植民地であったために公用語は英語となっている。「LIONHEART/ライオンハート」の登場人物たちは、ナイジェリア特有のスタイルの英語を話す。この作品が失格になったことで、ナイジェリア英語はイギリス英語やアメリカ英語とは異なる言語であるかどうかという議論が巻き起こった。
ジェネビーブ・ナージ監督の「LIONHEART/ライオンハート」は、現在Netflixで視聴可能だ。ロサンゼルス・タイムズ紙はレビュー記事の中で、この映画を「超有能なスーパー・ウーマン」アダエゼ(ナージが演じている)が、父親が経営する交通会社を守ろうと「女性差別が根強い産業界」で奮闘する物語だと紹介している。「アダエゼは、 文字通りの家父長制と戦いながらも、父親の経営する会社が続いてほしいと願っている。一見相反する妙な思いを持つアダエゼも、ナージ監督によって描かれると、怒れる、しかし正直な頑張り屋として、瞬く間に21世紀の世界を魅了するヒロインになった。 」
この作品が失格になったことに対し、ナジ監督は以下のようにツイートした:
1/1 1/2 Thank you so much @ava❤️.
I am the director of Lionheart. This movie represents the way we speak as Nigerians. This includes English which acts as a bridge between the 500+ languages spoken in our country; thereby making us #OneNigeria. @TheAcademy https://t.co/LMfWDDNV3e— Genevieve Nnaji MFR (@GenevieveNnaji1) November 4, 2019
1/1 1/2 ありがとう@ava❤️.
私は「Lionheart/ライオンハート」の監督です。この映画は私たちナイジェリア人の会話の仕方を表現しています。その中には、私たちの国で話されている500以上の言語の橋渡しをしている英語も含まれます。英語によって、私たちは#1つのナイジェリアになれるのです。@TheAcademy https://t.co/LMfWDDNV3e
正しい作品、間違った賞
そもそもこの混乱は、アカデミー賞がこの賞の名前を外国語映画賞から国際長編映画賞に変えたことに端を発している。The Wrapは、名前を変えたことにより「言語がこのカテゴリーへの応募要件ではなくなった」という間違った印象を与えてしまい、混乱を引き起こしたと指摘している。
しかしながら応募要件は変わっておらず、外国語であることの重要性はそのまま残っているのだ。
国際長編映画賞は、アメリカ国外で制作され、台詞トラックの大部分が英語以外の映画に与えられる。ナイジェリアのアカデミー賞選考委員会は、同賞への出品時にこのルールを忠実に守らなかったと認めている。
結果として起こった失格判定は 、ノリウッド(ナイジェリアの映画産業)の「細部への注意の欠落」という愚かさを、残念ながら反映してしまった。英BBCは、「LIONHEART/ライオンハート」は「間違った賞」にノミネートされた「正しい作品」だと 評している。
ナイジェリア英語は外国語か?
ナイジェリア人の言語学者であり詩人であるコラ・トゥボスン氏は、「LIONHEART/ライオンハート」の失格判定の後に起きた言語についての議論を先導した。トゥボスン氏はアフリカン・アーギュメントに記事を投稿し、ナイジェリア英語は、イギリス英語やアメリカ英語とは全く異なる「ナイジェリアの言語」だと論じている。
Its phonology (we stress the third syllable [ad-mi-RAL-ty] rather than the first [AD-mi-ral-ty], for instance), syntax (we say ‘let me be going’ for ‘I have to leave now'; ‘senior brother’ rather than ‘elder brother'; and ‘next tomorrow’ rather than ‘day after tomorrow’, etc.), and lexicon (words like ‘trafficate’ and ‘overfloat’, all distinctly Nigerian) already qualify it as almost a different language. Why else, for instance, would foreigners say ‘pardon?’, ‘scuse me?’ and ‘say it again’ so many times when speaking to us?
ナイジェリア英語の音韻論(例えば、admiraltyでは1つ目の音節 [AD-mi-ral-ty] ではなく、3つ目の音節 [ad-mi-RAL-ty] に強勢を置きます。)、統語法(私たちは「I have to leave now.」ではなく「let me be going. 」、「elder brother」ではなく「senior brother」、また「day after tomorrow」ではなく「next tomorrow」と言います。)、語彙(「trafficate」や「overfloat」などはナイジェリア英語にしかない単語です。)は、すでにナイジェリア英語をほとんど別の言語だと証明しています。そうでないなら、例えばなぜ、外国人は私たちと話すときに何度も聞き返したり、「もう一度言ってください」というのでしょうか。
トゥボスン氏はまた、アメリカの大学に入学したいナイジェリア人が、「非英語ネイティブ」が英語力を測るために受けるTOEFLを受検しなくてはならない皮肉な状況についても指摘している。かつてイギリスの植民地であったナイジェリアの公用語は英語なのだから、これは矛盾している。
同氏は、ナイジェリアの言語学者たちがナイジェリア英語を「体系化し、公式に認知する」ことに失敗しているが、ノリウッドの素晴らしい芸術がその役目を果たしていると主張する。
文化学者のコビー・ビアコロ氏はこの議論をさらに拡大させた。ビアコロ氏は、ノリウッドがナイジェリアの現地語の映画だけを作ることは金銭的に難しい、と指摘した。理由は単純明快。言語的な多様性のためである。500以上の言語があるナイジェリアでは、英語が国内外のナイジェリア人をつなぐ公式な架け橋 となっている。
In fact, contrary to popular belief, most Nigerian films are made with dialogues in one of the country's native tongues. While I couldn't obtain more recent statistics from the Nigerian National Film and Video Censors Board, according to 2011 data, 75 percent of all Nigerian productions are made in Nigerian languages. But the reasons English is used in Nigerian films (that are expected to be popular beyond its borders) are historical and practical: Nigeria was colonized by the British, and English is the country's official language. Moreover, in a nation-state with hundreds of languages, the obvious rationale is that English will most likely reach the widest national audience and ensure a potential built-in, English-speaking audience abroad.
実は、世間の印象とは反対に、ほとんどのナイジェリア映画は現地語で作られています。これより新しい統計は見つからなかったのですが、ナイジェリア国立映画・映像検閲局の2011年のデータによると、ナイジェリアで製作された作品のうち75%はナイジェリアの現地語で作られています。ナイジェリアの映画が(より国外で人気が出るであろう)で作られるのには、歴史的な事情と合理的な理由があります。まず、ナイジェリアは英国の植民地だったため、英語が公用語であること。さらに、数百もの言語がある国民国家では、英語で製作することによって最も多くの国民に作品を届けることができますし、さらに海外の英語話者の存在により、より広い視聴者を得る可能性を確保しておくことができます。
ナイジェリア人の作家であるチカ・ウニグウェ氏は、言語が人々の語りを「形づくる力」(訳注:2020年1月26日現在、リンク先は閲覧できない状態になっている)を持つ理由を、的確に表現している。
Our ideas of beauty, of race, of civilization and so on are based on the narratives that were told of us by those with the power to shape and share those narratives, and they in turn have become the narratives that we tell ourselves of ourselves. Why would an Igbo child tell another that eating akpu [a popular food eaten in southeast Nigeria] is bush? Or that eating with your fingers is bush? Or that speaking Igbo is bush? Why would an Igbo man come on Twitter — as someone did recently — and say what a pity it is that one of our Igbo leaders has an Igbo accent. It is because over the years, we have allowed — not always willingly, I must add — we have allowed others to calibrate what is ‘bush’ and what is not, what is desirable and what is not.
美しさや人種、文明などに対する私たちの考えは、力を持つ者の語りによって、またその語りを共有することによって形作られています。それが結果として私たちによって語られる私たち自身の物語になるのです。イボ族の子供がアプ(ナイジェリアの南東部でよく食べられる料理)を食べるのはダサいと他の子に言うのはなぜでしょうか?あるいはイボ語で話すのはダサいと言うのはなぜでしょうか?また、これは実際にあったことですが、あるイボ族の男性がTwitterで、イボ族の政治家がなまっていてカッコ悪いと言ったのはなぜでしょうか?それはこれまで私たちが、 もちろん常に好んでそうしてきた訳ではありませんが、何が「ダサく」て何がそうじゃないのか、何が好ましくて何がそうでないのかを他の人たちに決めさせることを許してきたからです。
今回の失格判断によって、言語の価値や、ナイジェリアのすべての言語による人々の語りについてなど、作品そのものを超えた議論ができたことはアカデミー賞に感謝すべきことである。
これまで、ナイジェリア英語を一つの言語的カテゴリーにするという公式な取り組みはなされてこなかった。とはいえ、ナイジェリアの言語のスタイルや言語的な美学についての文化的な議論は長年続けられている。
終わりになるが、「LIONHEART/ライオンハート」はアカデミー賞を超えたと言えるだろう。なぜなら、多言語社会の中の、そして力の均衡が発生している特定の言語間での不平等の問題を世界に知らしめたからである。 美しい芸術を使って難しい問題への議論を呼ぶこと。これこそが「LIONHEART/ライオンハート」のような創造的な作品の存在意義ともいえる。