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私の国にはこういうことわざがある。「ベラルーシの人や物について何か言われたとしても、どれも真実ではない」。他国の人がベラルーシのことを論じる場合がまさにこのことわざ通りで、欧州のあまり知られていない国々の1つについての一般的な憶測や根拠のない説を繰り返すのである。そういう根拠のない説を払拭する最善策は質問をすることだ。私の経験上、その質問がまたベラルーシについての無知さ加減を浮き彫りにするのではあるが。
これから述べることは、それらの問いにただ答えるのではなく、お粗末ながら私の解説である。私たちベラルーシ人がどう見られているか、また私たちが自分たちをどう見ているかについて、他国の人が言っていることをじっくりと考えてみたい。
1. 結局、ロシアの一部なんでしょう?
ブフ川(ベラルーシ人が定義するところの「西部」)の西側地域出身の知り合いの多くは、ベラルーシという国があることを知りもしない。知っているにしても、たいていは何も知らないに等しい。ベラルーシを地図上で確実に見つけられる読者はこの部分を読み飛ばしても構わないし、未だ欧州の地理に疎い友人を教え導くために読み直すのも良いだろう。
ほとんどの人がベラルーシを知らないのはなぜだろう。第一には、人間の持つ怠け心が関わっており、EU諸国や米国で「旧ソ連区域」と定められることの多い広大な領土の現実や複雑さを探究する気が起こらないからである。「旧ナチス」とひとくくりに呼ばれない国があるのはなぜだろう、と思っても良さそうなものである。この類の問題には、欧州と中国との間に位置する地域はすべて「ロシア」だとみなす思い込みが密接に関わっていることが多い。第二に、この悲しくも滑稽な誤解は「ベロルシア」という語から生じており、この語が時代遅れながらも、英語とロシア語の両方で今なお広く浸透しているからである。この語は古語であり、「白ロシア」(英語:White Russia、ロシア語:Белая Россия、ドイツ語:Weißrussland、フランス語:La Russie Blanche)と直訳されることがある。しかし、私たちは白ロシア人ではなく、ベラルーシ人である(編集者より:筆者はベラルーシ系アメリカ人や活動家が最もよく使用するBelarusan〈訳注:英語表記はBelarusianまたはBelarusan〉を使用)。
2.でも、グーグル翻訳で検索してみたら、国名に違う言い方があるけれど……
ロシア語圏のインターネットでは、BelorussiaとBelarus(ロシア語ではБелоруссияとБеларусь)のどちらを使用するのか、机上の戦士たちの間でイデオロギーの違いを理由に熱い論争となっている。誇張せずに言うが、この争点に関してはさまざまな度合いの嫌味で理屈っぽいコメントが何百万とある。最終的には二つの議論になるのであるが。
一つ目の議論で力説されるのは、「ベロルシア」という語の使用を認めるロシア語辞書があるという事実である。二つ目は、ベラルーシ語でこの国の現地語名は「ベラルーシ」(ベラルーシ語:Беларусь)だという言い分だ。「ベロルシア」に賛成の人は、ロシア語話者は他の国の現地語名(例:フィンランドを指す「スオミ」やドイツを指す「ドイチュラント」)を使わないという事実を引き合いに出して、全く別の誤った考えに陥ってしまう。肝心なのは、ベラルーシが二つの言語を公用語とする国であり、すべてのベラルーシ人がロシア語を話すということである。そして、正式にはロシア語を話すときや書くときでさえ、「ベラルーシ」と「ベラルーシ共和国」のみがこの国の現地語名と認められている。
こうした対立はそれぞれの側が相手をやんわりと馬鹿にすることになり、かなり多くのミームや時には非常に激しいうえに見苦しい論争を生むことになる。さらに、政治に無縁の多くの人が国名についての議論をそれほど重要ではないと考える一方で、より政治に関わる人は「ベロルシア」対「ベラルーシ」問題を、「敵」か「味方」かを判別する最善策のひとつと考えている。
地元の有識者や社会に積極的に参加している人は、国名について「ベロルシア」という語が間違いであるだけでなく、極めて帝国主義でロシア中心主義な解釈であるとみなしている。ロシア人が出世へのさまざまな場面でこの踏み絵を迫られていることは、ベラルーシの首都ミンスクでは公然たる事実だ。独立系ニュースサイト「メドゥーザ」の編集長であるガリーナ・ティムチェンコは2014年、ニュースサイトBolshoy.byに対して辞書やロシア憲法まで持ち出して、自身が「ベロルシア」を使用することを主張した。 さらには、ロシアの人気ロックバンドMashina Vremeni(Time Machine「タイムマシン」)のフロントマン、アンドレイ・マカレヴィチが2016年のミンスクでのコンサートで、自分はベラルーシ人を怒らせようとしているのではなく、旧ソビエト時代の名前「ベロルシア」に慣れてしまっているだけ、と説明した。
この二人のロシア人がとった対応に送られた拍手の量は、同じではなかった。
3. それで、ソ連は占領国それとも同盟国?
ベラルーシは1919年から1991年までソビエト連邦に属していた。それゆえベラルーシ人は、人がどこかほかの場所で感じるであろう故郷との強い絆のようなものを、ソ連という自分が生まれた社会に対して感じている。他に言いようがないのだが、とにかくリトアニア大公国(編集者より:16世紀から18世紀に広大な領土を有した国家で、ベラルーシも含まれていた)とのつながりの方がもっとずっと希薄なのだ。また、東スラブ人(ベラルーシ人、ロシア人、ウクライナ人)の同胞意識に関するソ連時代の神話も色濃く残っている。しかし、日を追うごとにだんだんと分かってくるのだ。ベラルーシの住民が感じる過ぎ去りしソ連への郷愁と近隣諸国の住民が感じるそれとは、全く違う意味を持っている可能性があることを。
要するに、ソ連時代を占領と考えるのかそうではないと考えるのか、ベラルーシ社会で一致した意見はないのである。
ベラルーシの公的な歴史文書からは、ソ連時代について好意的に解釈されていることがわかる。その内容は経済発展を強調するもので、1930年代のソ連政府による残虐な弾圧行為の追及も認識もない。その一方、公式釈明では残虐な弾圧行為を否定しておらず、時代は変わりつつある。ミンスク郊外の森林地帯、クラパティを例にとろう。そこは1937年にソ連秘密警察が処刑を行った場所だ。1991年にソ連型社会主義が崩壊し、ベラルーシが独立回復する期間、クラパティは重要な象徴的役割を果たした。その後数十年以上、クラパティでの惨事を回顧して伝え続けたのは、民主化を求める活動家だけであった。しかし現在では、大統領府が発行する新聞の元編集長でさえ関心を示している。
当時の公式釈明とは異なり、民間の歴史文書では、ソ連政府の計画こそがベラルーシ人のアイデンティティに決定的なダメージを与えた、という事実を隠すことはない。1953年から1964年までソ連の最高指導者であったニキータ・フルシチョフはミンスクで、ベラルーシ人はロシア語を選び母語を捨てたも同然であるから、「共産主義を築く」最初の人になるだろうと述べた。ソビエト連邦内で国民共通の言語や文化を発展させるという国家主導の計画は、1960年代には終わりを迎えようとしていた。フルシチョフの言葉は今なお反響を呼び、ベラルーシに対するソ連政府の態度について十分な説明をするものと考えられている。この事実は苦々しいとはいえ、致命的ではない。
最近では、ヨシフ・スターリンによる大粛清以前の1920年代と30年代のベロルシア・ソビエト社会主義共和国の文化を研究し、見直し、再評価することに新たな関心が集まっている。それもそのはずだ。初期のベロルシア・ソビエト社会主義共和国は、短命に終わったベラルーシ民主共和国(ベラルーシ人民共和国〈BNR〉)に取って代わるものと広く思われていたのだから。BNRが第一次世界大戦中の1918年3月25日に独立を宣言するまで、ソ連の最高指導者はベラルーシ人を別の民族と考えることはほぼなかった。
ベロルシア・ソビエト社会主義共和国の最初の15年間、モスクワからの政府職員は、文字通り自分たちが国家プロジェクトの対象者とは異なる言語を話すことを明らかに理解していた。だから、ベラルーシ語を奨励し、新聞紙上では国民性について激論を戦わせ、1つではなく4つの公用語(ベラルーシ語、イディッシュ語、ポーランド語、ロシア語)宣言を行うことにしたのだ。その当時としては、平和共存を可能にする社会的に非常に先進的なやり方であった。
いろいろな意味で、当時の様子はドイツのワイマール共和政に匹敵するであろう。その雰囲気が社会主義を支持する若い世代のベラルーシ語作家の意欲をかき立てたのは間違いなく、ベラルーシ生まれのポーランド人作家セルギウシュ・ピアセツキは回顧録の中で当時を称賛している。ピアセツキは、ポーランドとの国境を越えコカインを密輸するという大胆な企てについても書き残している。 ベラルーシ在住のソ連政府の計画担当者は敬意を表して、当時のベロルシアを「共産主義のデンマーク」と呼んだ。国の農業事業の成功に対してだけでなく、社会主義的な大規模集団農場用の住宅付き農地、フータルでの生活様式を変えることをベラルーシ人が断固拒否したという事実も踏まえて、称えたのである。
1937年にはソ連型社会主義でのスターリン独裁体制が確固たるものとなり、ソ連統治に対する世間一般の支持を得る必要性はなくなった。反スターリン派は姿を消すか新たな現実を受け入れるかしかなかった大粛清が行われたのである。「共産主義のデンマーク」の計画者はもちろん、ベラルーシの言語や文化を推奨した文化人も葬られた。ソ連の新しい独裁者の厳しい規制に則り、ベラルーシの言語や文化に関する講座は中止された。この新たな手本となる市民は、フルシチョフがベラルーシ語を見下す演説の主題になっていた(実際には、スターリンの名を繰り返しただけだったが)。1980年代後半に始まった文化的復興まで、大衆的なものはすべて入念に消し去られた。再び反体制派の意見が強くなると、ソ連解体による連邦構成共和国の主権回復という結果になった。
2月、著名な研究者であるハンナ・スィヴェリニッツから愚痴を聞かされた。1920年代と30年代のベラルーシ人「ソ連共産党員」の治世に関する研究記事を、出版することができないままだというのだ。記事に登場する英雄があらゆる面において都合が悪いためなのだが、つまり、政府刊行物では過度な国家主義者とされ、自主制作の刊行物では過度な「アカ(訳注:共産主義者)」とされているからである。
そういうわけで、今日この問いに対して粋な返答をすることができる人はまずいない。単にベラルーシ人を被害者にしたりソ連政府を美化したりするのではなく、ソ連政府統治下でのベラルーシ生活を評価できる人は別だが。その他の人はみな依然として、白黒はっきりした解釈を好むのだ。