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日系アメリカ人カメラマンが見た、占領下日本と強制収容の実態

General MacArthur lands in Japan

キャプション:「東京から20マイル、厚木海軍飛行場にて、C-54から降り立ち、初めて日本を見るマッカーサー元帥」写真はSCAP(訳注:連合国軍総司令官総司令部)の写真部カメラマンが撮影し、テッド・アキヤマがSCAP任務で日本に駐留していた時に収集したものと思われる。セオドア・アキモト・ファミリー・コレクションの厚意により掲載。CC BY-NC-SA 4.0

オンラインで掲載されている写真コレクションが、進駐軍占領下の戦後日本の姿と、復興の苦闘の様子を伝えている。

セオドア・アキモト・ファミリー・コレクション(訳注:以下アキモトコレクションとする)には、セオドア・アキモト自身が撮ったものと、彼が仲間から収集した250枚以上の写真が収集されている。それらは、日本を事実上独裁的に支配した連合国軍最高司令官(SCAP)、ダグラス・マッカーサー元帥の下で従事した戦後数年の間に撮られたものだ。

Ted Akimoto taking a photograph

「写真を撮影するテッド・アキモト」キャプション:「カメラはかさばって扱いにくい4x5スピードグラフィックスだった。すべてが手動だった。2枚のフィルムとスライド式のフィルムカバーが付いた木製ホルダーをカメラ後部に装着し、フィルムカバーをスライドして外し、ストロボを付け、露出とシャッタースピードを計算し、絞り値を決め、ピントを合わせて写真を撮るんだ!その後、フィルムカバーをホルダーに戻し、ホルダーをカメラから取り外し、ホルダーを裏返してカメラに再び装着し、フィルムカバーを外し、新しいストロボをつけたんだ!」アキモトコレクションより。CC BY-NC-SA 4.0

アキモトコレクションは、デンショー・デジタル・レポジトリが管理、運営している。第二次世界大戦の開始後に、アメリカで強制収容された日系アメリカ人たちの写真、文書、新聞、手紙、その他の一次資料を保存している団体だ。アメリカ市民のセオドア・アキモトは、米軍に入隊する前に家族とともに収容所へ送られたが、戦後は占領下の日本で軍務に服した。

アキモトコレクションについて、デンショー・デジタル・レポジトリはこう述べる。

The Theodore Akimoto Family Collection consists of materials from Theodore Akimoto's time with the 44nd Regimental Combat Team, Military Intelligence Service, 71st Signal Service Battalion, and Photo Division SCAP. The majority of the images document Ted Akimoto's time as a U.S. Army photographer during the occupation of Japan.

アキモトコレクションには、セオドア・アキモトが第442連隊戦闘団(訳注:第二次世界大戦時にヨーロッパ戦線で多くの死者を出した日系2世の部隊)、アメリカ陸軍情報部、第71通信役務大隊、そしてSCAPの写真部に所属していた当時の資料から構成されている。画像のほとんどが、セオドアが米軍アメリカ人カメラマンとして、占領下日本の日々を記録したものだ。

ナレーション付きスライドシリーズの中で、セオドア(テッド)・アキモトは、コレクションの画像すべてを自分が撮影したわけでなく、戦後の占領下の日本を記録することを課せられたさまざまな部隊からのものもあると語る。全ての画像は、特定非営利クリエイティブ・コモンズ共有、表示4.0国際ライセンスにより使用許諾されている。

Rubble left from fire bomb attacks

キャプション:「我々の焼夷弾(しょういだん)の威力はいたるところに見られる。特に工業地帯では、煙突とコンクリートの壁しか残っていない。」アキモトコレクションより。

1941年12月7日、日本が真珠湾攻撃をした時、アキモト一家はカリフォルニア州ロスアンゼルスに住んでいた。2016年アメリカ公共ラジオ、NPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)で放送された番組、All Things Considered(あれこれ考えてみると)によると、アキモト家の3人の息子たち、ヴィクター、ジョニーとテッドは、翌日兵役を志願した。しかしその直後、一家は銃を突きつけられながらロスアンゼルスの自宅から追い出され、他の何千人もの日系アメリカ人とともに僻地に抑留され、所有物全てを失うことになる。

3人兄弟は、やがて日系移民の子供たちのみで結成された第442番連隊戦闘団に籍を置き、ヨーロッパで任務を果たすことになる。ヴィクターとジョニーはヨーロッパで亡くなり、テッドは戦後、ダグラス・マッカーサー元師の正式なカメラマンとして日本へ送られることになる。

View of The Ginza District in Tokyo in 1946

キャプション:「1946年、銀座」。アキモトコレクションより。CC BY-NC-SA 4.0

写真コレクションからは、戦後の日本の復興ぶりがうかがえる。上の写真は1946年に撮られたものだ。かつてはにぎやかな繁華街で東京の中心だった銀座が、まだ多くは廃墟のままで、ごくわずかな社会基盤しかなかったことが分かる。その一年後に撮られた下の写真では、道路に車や運搬用トラック、バスなど乗り物が増え、大きく再建された銀座が垣間見られる。

View of the Ginza District in Tokyo in 1947

キャプション:「1947年銀座、1946年の銀座とその一年後。1947年の写真では、角の建物にTokyo Px(米軍の売店)のサインがある。また1946年の写真では、GI車(米軍車)以外の車両は見られない」アキモトコレクションより。

コレクションの写真からは、戦後景気に乗って、いずれは日本経済成長の奇跡が起こり繁栄と成功を達成するまで、まだまだ長い道のりがあることも明示している。次の写真は、洪水の被害に苦しむ田舎の様子を写している。

Japanese refugees paddle on makeshift raft through flooded village

洪水に襲われた村で、間に合わせのいかだをこぐ避難民。アキモトコレクションより。CC BY-NC-SA 4.0

戦時中の日本各都市爆撃は1945年に終わったが、破壊は続いた。1945年の空襲を受けた福井市は、1948年7月、地震で再び潰れた。アメリカ占領軍は、災害救援に大きな力を貸した。

Overhead view of Fukui, Japan

FEC-48-5331。1948年7月28日、福井、地震一ヶ月後。1948年6月28日午後遅く、日本南部海岸沿いの町を突然容赦なく襲った地震から一ヶ月後、福井は既に復興の兆しを見せている。完全復興には6年はかかるだろうと専門家たちが予測する中、市民は家を再建し始めた。写真撮影、Dargis。写真提供、アメリカ軍通信隊。」パブリックドメイン。

コレクションには、連合国によって解放された韓国にて写された写真も含まれている。

Koreans welcoming American troops

キャプション:「終戦時韓国、アメリカ軍到着を待つ群衆。」アキモトコレクションより。CC BY-NC-SA 4.0

テッド・アキモトはドイツの米軍基地の高校で、30年間写真と美術を教え続け、1989年に亡くなった。現在、アキモトコレクションは、デンショー・デジタル・レポジトリによって、オンラインで保存されている。

Japanese woman with a heavy backpack

大きな荷物を背負った日本人女性。アキモトコレクションより。CC BY-NC-SA 4.0

校正:Motoko Saito

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