「さらば、ジャマイカ」ハリー・ベラフォンテとその偉業をしのんで

カリブ海を歌い上げるハリー・ベラフォンテ 写真はマルコ・フォーステン Flickrより(CC BY-NC-ND 2.0.)

ハロルド・ジョージ・ベリンファンティ・ジュニアは、ハリー・ベラフォンテの名で世界中に知られた歌手、俳優、そして活動家だった。彼は4月25日にニューヨークで亡くなった。96歳だった。自分の仕事に心血を注いできた彼の死因が心不全だったとはなんとも皮肉なことだ。

その偉大さゆえに、人々からの追悼と追想が世界上のソーシャルメディアに溢れかえった。北米、ヨーロッパ、英国、そしてインドなどの英連邦の国々でも、人々はベラフォンテが世界に与えた絶大な影響を思い弔意を表した。特に強い影響を受けベラフォンテを深く愛し敬服していたカリブ海の国々からは、ほとんど言葉が出ないというコメントもある一方で、絶え間ない賛辞が寄せられた。

文化活動家であり作家のバーバラ・ブレイク・ハンナは何から語ればよいか途方にくれた。

とても悲しい知らせです。この人の偉大さと音楽、映画、人権、黒人の権利への一生をかけた貢献はとても言葉では言い尽くせません。ジャマイカは喪に服しています。

ジャマイカの文化・ジェンダー・エンターテインメント・スポーツ担当大臣オリビア・バブシー・グランジのツイート。

ハリー・ベラフォンテの逝去の報に接し、悲しみに沈んでいます。彼は我が国のフォーク音楽の重要な推進役で、『デイ・オー(Day-O)』や『さらばジャマイカ(Jamaica Farewell)』などの歌をアメリカや様々な国々に広めてくれました。

彼は世界中の黒人たちを代表する声であり顔であり励ましでもありました。

あなたを失い心にポッカリと穴が開いたようです。

ベラフォンテは1927年3月1日、ニューヨークのハーレム地区でカリブ系の両親のもとに生まれた。父親はマルティニーク出身のシェフで、母親はジャマイカ出身の家政婦だった。ジャマイカの地方都市セント・アンにある母親の実家で子ども時代の8年間を過ごし、キングストンのウォルマーズ・スクールに通った。ニューヨークへ戻ってきたが、ディスレクシアに苦しみハイスクールでの学業は不振だった。17歳で米海軍に入隊し、第二次世界大戦中はニュージャージーの軍基地で勤務した。

戦後、ベラフォンテはあれこれと低賃金の仕事についていた。アメリカン・ニグロ・シアターを観に行き、バハマ系アメリカ人のシドニー・ポワチエとともに俳優講座を受ける気になった。ふたりは仲良く競い合ったが、ベラフォンテは間もなく音楽の道に向かうことになった。ジャマイカのフォークソングを演奏して、歌手や演奏者としての人気が高まり人種の壁を打ち破った。ポワチエが非白人俳優たちに新しい可能性を開いたのと同じだった。

1956年にリリースされたベラフォンテのファーストアルバム『カリプソ(Calypso)』は、100万枚を売り上げた最初のLPレコードだとされている。このアルバムは1950年代にカリブ海音楽の熱狂的な大ブームを引き起こした。アメリカでは人種差別があり、メディアや芸能界では黒人たちの存在がほとんど無視されていたことを考えると、大きな成果だと言える。アルバムで最も有名な曲はおそらく(『バナナ・ボート・ソング(The Banana Boat Song)』の名でも知られる)『デイ・オー(Day-O)』であろう。これはポートランドのバナナ農園労働者たちを歌ったジャマイカの人気フォークソングをもとにしている。この歌はアメリカでもヨーロッパでも特大ヒットになり、ベラフォンテのテーマソングとなった。『さらばジャマイカ(Jamaica Farewell)』も人気曲だ。これは感動的で郷愁を誘うカリブ海の美を讃えた歌で、ベラフォンテの多くの曲を手がけたバルバドス系アメリカ人アービン・バージー(ロード・バージェス)の作詞によるものだ。ニューヨークタイムズ紙によると、カリスマ性に溢れ容姿端麗なベラフォンテは、1959年までに史上最高のギャラをとる黒人歌手になっていた。当然あちらこちらで引っ張りだこだった。

音楽界から俳優の世界へと楽々と転向し、1954年にブロードウェイミュージカルの配役でトニー賞を獲得した。しかし俳優経歴を重ねるうちに、活動家への道を歩み出していた。ベラフォンテはマーチン・ルーサー・キング牧師と懇意になりその薫陶を受けた。1963年にアラバマ州バーミンガムでキング牧師が投獄された時、その保釈金を納めたのはベラフォンテだった。ベラフォンテは様々な活動に使われる資金の予算立てをし、資金繰りや資金調達にもたずさわった。キング牧師の「私には夢がある」というスピーチで有名なワシントン大行進もそのひとつである。

ますますベラフォンテは公民権運動でアメリカ中に知られるようになった。のちに彼の目は国境を越えて、南アフリカの反アパルトハイト運動へと向いていった。著名な音楽家たちと共に制作したチャリティレコード『ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are The World)』は、アフリカの飢饉救済のために当時の金額で6300万ドルを集めた。ベラフォンテは1987年にユニセフ親善大使に任命され生涯つとめあげた。そしてアフリカのエイズ撲滅運動にも尽力した。自身が前立腺がんを克服した経験から、その病気への意識喚起にも努めた。

ベラフォンテは人種差別を激しく根気強く批判し続け、多くの人権問題に関わった。そのひとつがグアンタナモ湾収容キャンプの件だ。彼は黒人意識の問題に無関心だとして、何人かのアメリカ黒人アーティストを非難した。彼の発言は時として議論を呼んだが、常に信念を持って自分の意見を述べた。多くのジャマイカ人は彼のそんなところに敬服したのだ。

ジャマイカのアンドリュー・ホルネス首相は次のように敬意を表した。

「ディ・オー、ディ・オー。夜が明けたら家へ帰ろう」
今日、我が国は大切なキーパーソンを失い嘆き悲しんでいます。ハリー・べラフォンテが亡くなりました。ハリー・ベラフォンテは人種の壁を乗り越えた歌手であり俳優でした。また社会正義と全ての人々の平等を促進するために、その才能と活動の場を使った活動家でした。

昨年ホルネス首相は、2018年にジャマイカ国内賞のメリット勲章を受賞したベラフォンテの名誉を讃えて、ハイウェイに彼の名がつけられると発表した。

ジャマイカ野党の国民党はこう発信した。

わが党はこの並外れた人物の逝去を悼み、その素晴らしい生涯と遺産を全ての国民とともに誉めたたえます。ハリー・ベラフォンテこそ真の意味でジャマイカ人そのものでした。音楽や映画や社会正義に貢献した姿は次世代の人々を大いに鼓舞し続けるでしょう。

ピーター・フィリップス元国会議員はFacebookにこんな投稿をした

Harry Belafonte never ever forgot his Jamaican roots and always paid tribute to the strength of his ancestors as he fought for justice and equality for all people everywhere. His was a life well lived. Daylight has come and he's going to his eternal home. […]

ハリー・ベラフォンテは自身に流れるジャマイカの血のルーツを決して忘れず、先駆者たちの勇気に常に敬意を表し、世界中の全ての人々の正義と平等のために戦いました。見事な一生でした。夜が明け、彼は天国へ帰っていきます。[後略]

ジャマイカのアメリカ大使館のツイート。

伝説的なジャマイカ系アメリカ人の英雄ハリー・ベラフォンテの訃報に接し、深い悲しみにくれています。社会活動に捧げた一生と優れた音楽を讃え、この期にさいし、身近なご家族と友人の皆様にお悔やみを申し上げます。

ジャマイカの人気歌手ナディーン・サザーランドは楽しそうに思い出を語る。

私と同世代の若い黒人女性の多くは、世界中でハリー・ベラフォンテにゾッコンでした。ホントにいい男でした。どの映画を見てもその気品と威厳に私たちは熱くなりました。ジャマイカで彼の映画を見た時には、中には「昔の」ものもあるなんて知りもしないでね。私たちの力強いパイオニア、空高く舞い上がれ。

彼女はこう続けた。

世界の表舞台で初めてカリブ海文化にスポットライトを当てた人でした。公民権運動の間も、自分の活動の場をアフリカ系の人々の地位向上のために活用してくださったことに感謝します。あなたは私たちの誇りであり手本です。偉大な祖先たちが待つ王国へ舞い上がれ、ハリー・ベラフォンテ。

ジャスティン・ヘンゼルは映画監督でジャマイカのキャラバシュ文学祭の共同創立者だ。ヘンゼルはベラフォンテとの出会いをこう振り返った。

2012年にジャマイカ独立50周年を祝ったドキュメンタリー『ワン・ピープル(One People)』でハリー・ベラフォンテにインタビューできました。とても名誉なことで恐縮してしまいました。彼はジャマイカの血をとても誇りにしていて、彼を前にすると私たちはもうドキドキでした。

ジャーナリストのカレン・マドンは心を込めてこうツイートした。

安らかにお休みください、カリプソの王者ハリー・ベラフォンテ。どこでも自分の好きな場所にいてもよいと私たち黒人が思えるようになったのは、ひとつにはあなたの力があります。夜が明けました。天国へお帰りください。

ジャマイカ学術文化研究者ソニア・スタンレーのツイート。

あなたの音楽、挑戦、革新、そして先駆者としての歩みが次の世代を鼓舞し続けますように。

はるか離れたロンドンを拠点としているトリニダード人ジョナサン・アリはFacebookにこんな回想を綴った。

In 2011, the Trinidad and Tobago Film Festival screened the documentary Sing Your Song, about Harry Belafonte, and based on his recent memoir, My Song. His daughter, Gina Belafonte, was our guest at the festival, presenting the film at several screenings and receiving a lifetime achievement award from the festival on her elderly father's behalf. One night some of us were returing from Studio Film Club and I asked Gina if she knew when was the last time her father had visited Trinidad. She didn't. She took out her phone and dialled a number.
“Hi, Dad, how are you doing? Tell me something – when was the last time you visited Trinidad?”

And so that night, as we drove up and over the winding road that led into Port-of-Spain, Harry Belafonte, at home in New York, relayed to those of us in the car his memories of Trinidad (his last trip had been sometime in the '70s), his wonderful experiences there, and the people – especially the calypsonians – it had been his privilege to meet and get to know.

Belafonte's encounter with Trinidad and in particular his embrace of its music was nothing short of extraordinary – his album Calypso (1956) was the first to sell a million copies. Yet it was only one facet of a truly extraordinary and unflaggingly dynamic life as a ground-breaking activist and artist that spanned the better part of a century. His legacy is astonishing. He was, to borrow the title of the memoir of his friend Sidney Poitier, who we lost just last year, the measure of a man.

2011年、トリニダード・ドバゴ・フィルム・フェスティバルでドキュメンタリー映画『シング・ユア・ソング(Sing Your Song)』が上映されました。これはハリー・ベラフォンテの最新刊自叙伝『マイ・ソング(My Song)』に基づいたものです。娘のジーナ・べラフォンテがフェスティバルのゲストに招かれ、何か所ものスクリーンでこの映画を上映し、高齢の父親に代わってフェスティバルから特別功労賞を授与されました。ある夜のこと、私たち何人かでフィルム・クラブスタジオから戻る途中、ハリーが最後にトリニダードを訪れた日を知っているかとジーナに聞きました。彼女は知らないと答え、電話を取り出してかけたのです。「もしもしお父さん、ちょっと聞きたいんだけど、最後にトリニダードに来たのはいつだったの?」

それからその夜は、ポート・オブ・スペインへ続くつづら折れの道を車を飛ばしながら、私たちはニューヨークの家にいるハリーのトリニダード時代の思い出話(彼が最後にトリニダードを訪れたのは70年代のことでしたが)を電話越しに聞きました。彼はその地で素晴らしい体験をし、特にカリプソ歌手らと知り合うという恩恵に浴したのです。

ベラフォンテのトリニダードとの出会い、特にその地の音楽を取り入れたことは驚異的と言わざるを得ません。彼のアルバム『カリプソ(1956年)』は初めてのミリオンセラーとなリました。でもそれはほぼ1世紀にわたる人生のほんの一場面でしかないのです。彼は革新的な活動家や芸術家としてずっと生きてきたのです。彼の遺産はめざましいものです。去年亡くなったばかりの彼の友人シドニー・ポワチエの自叙伝のタイトル(”The Measures of a Man”)を借りると、それはまさに「人間の尺度」と言えるものです。

自伝的な『シング・ユア・ソング』について、英国を拠点とするあるジャマイカ人はこうツイートした。

自伝ビデオ『シング・ユア・ソング』のなかで思春期のことを語っています。セイント・アンのバンブーにある祖母の家に彼を残して母親が出て行ったのです。彼はジャマイカの田舎暮らしが大好きで、農作物をブラウン・タウンのマーケットに運んだりしました。豊かな島の生活をずっと大切にしていたんです。

あるキューバ政府関係者は興味深い意見を述べている。

【略】多くのキューバ人「亡命者」に言わせれば、革命以前のキューバには人種差別などはなかったそうです。キューバはアメリカのような人種差別主義者ではないと言われています。

でも私の考えでは、キューバはカリブ海の全島の中で最も人種差別主義者でした。間違いありません【略】

ハリー・ベラフォンテに。

ジャマイカ人移民たちはベラフォンテの死をより深く受け止めているようだった。カナダを拠点とするジャマイカ人詩人パメラ・モーディカイはこう語る。

ハリー・ベラフォンテがこの世から旅立ちました。私同様に世界は損失感を覚えるでしょう。豊かなこの島を第二の故郷とするベラフォンテの精神と行動と芸術に感謝します。

国内外を問わずジャマイカ人やカリブ諸国の人々の多くは、俳優や音楽家としての彼の経歴をそれほど認めているわけではない。重要なのは公民権運動の分野での彼の行動であり、生涯を通じてひたむきに社会正義を擁護してきたことだ。あるジャマイカ人ブロガーは悲しみに暮れこうつぶやいた。

今日は一日気が重い。ハリー・べラフォンテ、安らかに。

ハリー・ベラフォンテは奥の深い人物だった。その死によって芸術家や活動家としての彼の遺産が再び世界的な注目を浴びた。祖国の市民はもちろん、国外への移住者は特にこの世界的なカリブ人スターへの郷愁に深く浸っている。

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