カリブ世界に広がるティナ・ターナーへの追悼の声

マンチェスター・アリーナでのティナ・ターナー公演 2009年4月 写真撮影 ジュリア(Julia)Flickr(CC BY-NC-ND 2.0)による

(原文記事は2023年5月26日に公開されました)

比類なきロック歌手、ティナ・ターナーが5月24日に亡くなった。享年83歳。ティナは暴力的な夫に支配されつつ人気を得たが、命がけで彼から逃れた後、ゼロからキャリアを積み上げ直して世界的なスーパースターに上り詰めた。2013年に脳卒中に倒れ2016年には腸がんと診断されるなど、ここしばらく健康上の課題を抱えていた。また腎臓合併症を発症し、翌2017年には移植手術を受けた。

ティナ・ターナーが亡くなったことを大きな悲しみとともにお知らせします。その音楽と情熱的に生きた人生で、ティナは何百万人に及ぶ世界中のファンを魅了し未来のスターたちを励ましてきました。今日でお別れですが、私たちに立派な業績を残してくれました。それはティナの音楽です。ティナのご家族に心から哀悼の意を表します。ティナ、ほんとに寂しくなりますよ。

1939年11月26日、テネシー州生まれ。本名はアンナ・メイ・ブロック。幼少期は波風はあっても平凡な毎日だった。両親が仕事のために引っ越すことが時たまあり、2人の姉と共に長い間祖父母の家に引き取られていた。ブロックはバプティスト教会の合唱隊で歌唱力に磨きをかけたが、11歳の頃に母親が暴虐な父との結婚生活から逃れるためにイリノイ州へ出奔した。彼女は結局、母親と暮らすことになった。ブロックとアイク・ターナーの出会いはセント・ルイスのマンハッタン・クラブでのことだった。ブロックはそこで、アイクが自分のバンドのキング・オブ・リズムを従えて演奏しているのを初めて見た。当時17歳だったブロックはバンドに入れてくれるようアイクに頼んだ。ある夜のことだ。ブロックがステージの幕間にマイクを手に取り、B.B.キングの『ユー・ノウ・アイ・ラブ・ユー(You Know I Love You)』を歌うのを聞いて、アイクはあっさりと彼女のバンド加入を許したのだった。

アイクのバックアップを受け、ブロックは1958年にリトル・アンの名で最初の曲を録音した。当時は高校を卒業してまだ間がなく、1960年になってやっと注目を浴び出した。その年ある地方局のDJが、アート・ラシターのためにアイクが書いていた『ア・フール・イン・ラブ(A Fool in Love)』をブロックが歌ったデモ録音を耳にしたのだ。そのテープはR&Bレーベル、スー・レコードのヘンリー・ジャギー・マーレイ社長のところまで届き、ブロックが金の卵だったことをアイクは知ったのだ。アイクは彼女に「ティナ」という新しい名前をつけ、自分の苗字を与えた。そしてその名前を商標登録し、もしブロックがバンドをやめても、別の歌手が「ティナ・ターナー」という名でステージに上がれるようにしたのだ。

ティナの代役など誰にもできないことがアイクには分からなかった。ティナの人気はうなぎ上りで、『ア・フール・イン・ラブ(A Fool In Love)』はホットR&Bサイドの第2位にランクされ、ビルボード紙のホット100でも27位まで達した。続くシングル盤『イッツ・ゴナ・ワーク・アウト・ファイン(It’s Gonna Work Out Fine)』で、2人はグラミー賞のベスト・ロックンロール・パフォーマンス部門にノミネートされた。人気上昇の追い風に乗ろうと、アイクはアイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューを結成した。このバンドは合衆国中を頻繁に巡業してまわり、南部のクラブやホテルでは人種を問わずあらゆる聴衆に演奏を届けた。2人は1962年に結婚し、その後数年間は猛烈な勢いでレコード契約が押し寄せた。中にはワーナー・ブラザースとの短期契約もあり、そのおかげでアメリカン・バンドスタンドハリウッド・ア・ゴーゴーなどのテレビ番組に出演し、知名度を高めることができた。

1966年にコンサート記録映画『ザ・ビッグ・TNT・ショー(The Big T.N.T. Show)』に出演後、2人は腕利きプロデューサーのフィル・スペクターと契約した。そしてその秋のローリングストーンズの英国ツアーで前座をつとめた。この時初めてティナは創造の自由に目覚め、歌のレパートリーを広げ始めた。しかし相変わらずアイクの操り人形のままだった。2人はローリングストーンズのアメリカツアーの前座をつとめ、ラスベガスでの単独ライブ公演には大物ミュージシャンたちが姿を見せた。その中にはデビッド・ボウイやエルビス・プレスリー、そしてエルトン・ジョンなどもいた。スペクターのアドバイスを受け、1970年までにはアイクとティナのアルバムは従来のリズム・アンド・ブルースのレパートリーだけでなく、『カム・トゥギャザー(Come Together)』、『ゲット・バック(Get Back)』、『ホンキー・トンク・ウーマン(Honky Tonk Woman)』などロックの名曲を含むようになった。1971年にはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(Creedence Clearwater Revival)の『プラウド・メアリー(Proud Mary)』をカバーし、コンビ最大のヒットになった。映画の領域にも活躍の場を広げ、ティナの演技は批評家の絶賛をいくつも浴びることになる。

歌手として知名度は上がったが、私生活は壊滅状態だった。アイクに暴言を吐かれ身体的虐待も受けた。アイクの暴力に耐えきれず、ティナは1968年に自殺未遂を起こした。2人は16年間の結婚生活に終止符を打つ結果となり、ティナはそのステージ名の権利以外を全て放棄した。唯一所有権として認められたステージ名のおかげで、最終的に彼女は自由を勝ち取ることになったのだった。

ソロ活動開始当初は、フードスタンプや友人たちの善意でなんとか食いつなぎながら、ティナはテレビのバラエティ番組に出演して自活生活を続けた。収入の多くは、アイク・アンド・ティナ・ターナー・レビューとしてステージに立たなくなったことに対する訴訟の和解金に使われた。しかし彼女は懸命に働き、セクシーな新イメージをまとってカムバックした。この時、ステージだけでなく自身の人生でも文字通り主役となったのだ。

1984年に5作目のソロアルバム『プライベート・ダンサー(Private Dancer)』をリリース。ティナがまだまだ創造力に溢れ、衰えを見せないアーティストだというイメージを確立した。そのアルバムからの特大ヒット曲『愛の魔力(What’s Love Got to Do With It?)』はティナの初めての全米ナンバーワンヒットになった。スタジアムでのコンサートはすぐに満員になった。ブラジルでのコンサートの入場者は18万人以上もあり、それは史上最大のコンサートのひとつだとされている。1985年にロンドンのウェンブリー・スタジアムで開かれたライブ・エイドのコンサートにもティナは出演した。このコンサートではエチオピアの飢饉救済のために何100万ドルも集めた。

トリニダード・ドバゴの映画キュレーター、ジョナサン・アリはバルバドスに住む仕事仲間のジェイソン・ジェファーズのエッセイから引用して、ティナのルックスがカリブの人たちにとってどんなに大切だったかを発信した。

In 1985, on my little island, the heroes in almost every movie, book, cartoon and comic we obsessed over were white men. I remember one night tearfully asking my mother why my hair wasn’t straight. I’d been playing superheroes outside again and wanted my hair to blow in the wind like He-Man’s did when he battled his arch-nemesis Skeletor; my curls just stood there, inert….

Then came Tina Turner’s ‘We Don’t Need Another Hero (Thunderdome).

1985年当時、私の住む小さな島国ではどの映画や本やアニメや漫画でも、私たちがハマるヒーローは皆白人でした。私はなぜ縮毛なのかと涙ながらに母に尋ねた夜のことを覚えています。気分を切り替えてスーパーヒーローごっこを続け、宿敵スケルターと戦うヒーマンのように髪の毛を風になびかせたいと思っても、私の縮毛はなびかず、縮れたまま[後略]。

そんな時、ティナが歌う映画『マッド・マックス(サンダードーム)』の主題歌『孤独のヒーロー(We Don’t Need Another Hero (Thunderdome))』に出会ったのです。

アリはまた、この映画の登場人物である女帝アウンティ・エンティティについて、「ティナをイメージしての配役だった」というジョージ・ミラー監督のこんなエピソードを紹介している。

Mad Max is about an apocalyptic world, and we needed someone who was powerful, but most of all, who was a wonderful survivor […] and as a writing reference we kept on saying, ‘Someone like Tina Turner, someone like Tina Turner.’

マッド・マックスは終末の世界を描いていて、強力な登場人物が必要でした。それは力強く、何と言っても苦難をものともしない人物で[中略]、脚本執筆の合言葉として、私たちはいつもこう言い続けていました。「ティナ・ターナーのような人物、ティナ・ターナーのような人物」と。

ティナは家庭内暴力の被害者経験を公表しようと決意し、それは映画『Tina/ティナ(What’s Love Got To Do With It)』の中でも特に印象的に表現されている。これはティナが1986年に発表した自伝『愛は傷だらけ(I,Tina)』をもとにしたものだ。この映画のおかげで、ティナの名は人々のうわさ話の種になるだけでなく、人々の心に深く刻まれることになった。特にカリブの人々の心を強くつかんだ。カリブ地域は高い発生率の家庭内暴力やフェミサイド(女性嫌悪殺人)と戦っている。多くのカリブ女性たちにとって、ティナは回復力と希望の象徴だ。もし誠実で勤勉で勇敢なら、そして信じるものがあれば彼女のように生きることができるのだ。ティナは仏教の教えに強く影響を受けている。仏教のおかげでアイクと別れる覚悟ができたそうだ。

音楽界への見事なカムバックを成し遂げ、ロックンロールの女王という称号を確固なものとした。ティナは(コカイン吸引運転で当時入獄中のアイクとのデュオ名義で)1991年にロックの殿堂入りを果たし、この頃から音楽界の重鎮としての役割を担い始めた。当時ドイツ人レコードプロデューサー、アーウィン・バックと恋愛中で(2013年にようやく結婚した)スイスに滞在することが多く、結局そこで市民権を得た。

ヒット曲をまとめた3枚組のベストアルバムが企画され、1994年に『コレクテッド・レコーディング(The Collected Recordings)』としてまとめられた。1999年には、最後のスタジアム・ツアーを発表し、それは2000年で最高の収益を得たツアーとなった。しかしその後しばらくの間も、ティナはライブ活動を続けた。そのひとつがブロードウェイミュージカルになった『ティナ!(Tina!)』の50周年記念ツアーだ。そして2018年には2冊目の自伝『ティナ・ターナー:マイ・ラブ・ストーリー(Tina Turner: My Love Story)』が出版された

2021年にとうとう、ソロ・アーティストとしてのロックの殿堂入りが実現した。ティナは81歳になっていた。同年、ドキュメンタリー映画『ティナ(Tina)』が初めてHBOケーブルテレビで放映された。またその年にティナは自分の音楽著作権をBMG売却したが、その金額は未公開となっている。

カリブ圏のSNS利用者は世界中のネット市民と同じように、この世界的なスターに敬意を払い、その音楽と生き方謝意を示した。人々が称賛したのは、ティナの「不屈の楽観主義」であり、独特のファッションセンスであり生きた伝説としての彼女の存在そのものだった

ティナとサックス奏者レイモンド・ヒルとの間に生まれた息子のクレイグが2018年に自死、アイクとの間の息子ロニーがその4年後に大腸癌で亡くなるなど、ティナの心は傷つき、大成功も癒しにはならなかった。しかし、ティナは常に人生の喜びに目を向けようとした。彼女には音楽があり、夫がいる。そしてアイクと前妻との間に生まれティナが育てたアイク・ジュニアやマイケルといった子どもたちがまだ健在だ。こんなささやかでも意味のあることが人生を並外れた素晴らしいものにしてくれるのだ。

校正:Yoko Higuchi

コメントする

Authors, please ログイン »

コメントのシェア・ガイドライン

  • Twitterやfacebookなどにログインし、アイコンを押して投稿すると、コメントをシェアできます. コメントはすべて管理者が内容の確認を行います. 同じコメントを複数回投稿すると、スパムと認識されることがあります.
  • 他の方には敬意を持って接してください。. 差別発言、猥褻用語、個人攻撃を含んだコメントは投稿できません。.