(原文掲載日は2021年10月08日)
この記事はスリジャナ・シン・タクリによって書かれ、ネパリタイムズに掲載されました 。コンテンツパートナーシップを介して、編集版をグローバル・ボイスに再掲しています。
私のお父さんは息子が欲しかった。
私は長女で、その後3人の妹が生まれた。母はさらに3人の子を身ごもったが、すべて女の子だった。
生まれてくる子どもの性別判定で女児だと分かった場合、両親が中絶を選択できる違法な診療所で、その子たちはみな中絶された。私は今ではその習慣が女児堕胎と呼ばれ、特に南アジアでしばしば行われていることを知っている。
私の両親はやがて息子が生まれることを切望していた。私は母が再び女児を身ごもったことがわかるたびに、母の目に悲しみや不安が漂うのに気づいていた。
母は呪われ打ちひしがれていると非難された。なぜ私では不満だったのですか?なぜ私たち娘では不満だったのですか?
結局、お父さんは私たちを捨てた。ある夜、私たちを置き去りにし無言で姿を消した。私たちは崩壊した家庭で悲しみに暮れ、戸口にはたえず借金取りが群がっていた。
母の健康は悪化し、私は母の笑顔をほとんど見なくなった。私は母の苦痛を和らげるためにバス停で料理人として働き始めた。バナナや果物を売り精いっぱい頑張った。私は母の涙を見て、母と父がどうしても欲しかった息子に劣らないぐらい力になると母に約束した。
私はお父さんを責めはしない。実はお父さんを気の毒にすら思う。お父さんは家父長制の犠牲者であり、それしか知らなかった。社会では女の子は投資する価値がなく、結婚して他の家へと出ていくだけ、家族にとっては一家の名を受け継ぎ先祖の財産を相続する息子が必要だとされ、そう信じ込まされていた。
しかし皮肉なことに、だれも相続できる土地はなかったし、何も持っていなかった。息子を望んでいる間に私たち家族は貧困、借金、そして絶望へと深く真っ逆さまに落ちていった。
やがて状況が好転し始めた。私はネパールで最も環境問題意識の高い学校として知られるスルケートのコピラバレースクールの入学試験を受けた。先生たちは私の生い立ちを知るようになり、幸運なことに私の年代ではめったに入ることのできないクラスに入ることができた。面接では教育を受けることができれば、母が3人の妹の世話をするのを助け、妹たちの勉強を手伝うこともできるようになると説明した。
私は自分の悲しみと怒りを決意に向けようとした。すべてにおいて一番になりたかった。そして、私はそれを何らかの形でお父さんに証明したいと思い、クラスキャプテンになり、女の子のエンパワーメントクラブに参加し、伝統的なダンスのレッスンを受けた。
私は詩を書き、ディベートコンテストに参加した。図書館で本を借り、夜遅くまで勉強してクラスメートに追いつくためにすべての課題を仕上げた。私は目の前にあるあらゆる機会をつかんだ。
ある日、コピラバレースクールが初の 女子サッカーチームを立ち上げるという発表があった。私はその最初の練習に草の茂っていないフィールドに現れた。スニーカーも履かず、額には汗が滴り落ち、何か新しいことに挑戦する準備ができていた。私はそれまでフィールドを見たり、試合を見たり、ショートパンツをはいたことはなかった。
私の村では、土地は隅々まで食糧を育てるために使われ、スポーツは生育期の間に休耕の段々畑で行われる男の子のためのものだった。私はそれまでサッカーが私のためにあるとは知らなかった。
私は毎日ゴピコーチとの練習に参加した。コーチは私を男の子と同じように扱い、私を怒鳴ったが励ましもした。最初の試合や、ユニフォームを着てフィールドを駆けてボールを追った時の気持ちを今でも覚えている。
やがて私はサッカーが上達し、私たちのチームは試合に勝ち始めた。私はゴールを決め、特にディフェンス、ヘディング、コーナーキックに強かった。しかし、勉強も続け、学生として、そしてアスリートとして注目されるようになった。
私はより大きなチームでプレーし、トーナメントに迎え入れられた。噂もされた。近所の人は、私が帰宅するのが遅すぎる、または出かけるのが早すぎると私について陰口をたたいた。私はわがままで、足が地に着いていないとも言われた。生理中はさらに酷くなり、どこなら行ってよいか、何ならしてもよいか、やいやい言われた。
私の村で女の子に期待されていた振る舞い、つまり、口出しせず、軽はずみな言動を慎み、注目されないようにし、そして適齢期になったら結婚するということに反対だった。
私は批判を振り払い、自分の夢から目を逸らさなかった。教育を続け、クラスのトップで卒業した。そして奨学金を受け取ることができ、カトマンズの大学に入学した。私はサッカーを続け、トーナメントに出場し、昼夜を問わずトレーニングした。
私の例は特別なものではなく、女性にチャンス、機会、投資が与えられれば起こり得ることだ。
私はちょうど20歳になり、先週ネパール女子サッカー代表チームの正式な登録メンバーに入った。契約を結び、私の名前は新聞で発表された。私は今や正式に国を代表するプロのサッカー選手である。
自分の国が私を誇りに思っているとは感じられない時もあったが、ネパールの娘であることをこれほど誇りに思ったことはない。
赤いナショナルジャージを着てスタジアムに足を踏み入れるのが大好きだ。ボールを蹴り、蹴ったボールがゴールネットに突き刺さる瞬間に今も興奮する。
私はサッカーが大好きだ。なぜなら、サッカーで自由と逞しさを感じられるからだ。私の次の大きな夢は、ネパール女子チームがワールドカップでプレーするか、オリンピックに出場することだ。
何年も経った後、お父さんは私たちのところに戻ってきた。お父さんは大いに目覚め、自分の過ちに気づいたと言いたいが、そうではなかった。それどころか、再び息子を切望し、ついに私の弟が生まれた。
私は弟が大好きだ。弟が私が競技するのを見て成長し、女の子に何ができるかについて違ったビジョンを持つようになることを願っている。
私のお父さんはいつも望んでいたものを手に入れた。そして私は私の夢を叶えた。私はナショナルチームのメンバーになった時、すぐにお父さんに電話した。お父さんが私を誇りに思っていたことを知っている。
私は最近、もうお父さんに証明するものがないことに気づいた。私の夢は父親が息子だけを望んでいる私のような女の子のためのものだ。私の夢は私の姉妹と私の母のためのものだ。しかし、何よりも私の夢は私のためのものだ。